綾瀬の富士塚全景

東京都足立区綾瀬の綾瀬稲荷神社

 記念すべき探訪第一回となる富士塚は、私の住所から最も近い東京都足立区綾瀬の綾瀬稲荷神社としたい。自宅から歩いて行く気になれる唯一の富士塚である。

 営団地下鉄千代田線綾瀬駅の西口改札から、右手に出て左へ道なりに進むと、車道を挟んだ向かいにパチンコ屋やゲームセンターの並びが切れる路地があり、奥に寺院が見える。車道をつっきり観音寺というこのお寺を壁沿いに左に廻りこみ、壁が切れたところが綾瀬稲荷神社である。富士塚はその入り口左手にある。

綾瀬稲荷神社

 実は、上の画像ををはじめとしてこのページの写真は、秋葉原の量販店で購入したデジカメで撮影したものである。年頭の特売で安かったから買ってしまったが、しかし、新品であるにもかかわらず満足できる画質と使い勝手ではなかった。結局二ヶ月して売り払い、別のメーカの中古を買ってしまった。中古とあって冒険ではあったが、いい画質と使い勝手を提供してくれるので今ではこの選択を正しかったと思っている。さておき、その正月セールのカメラが本格的なデジカメとしては初めてということもあり、早速試し撮りの対象としてこの富士塚を選んだのである。
 この正月購入というタイミングは遅れた年賀状を作るためのものだった。怠け者の私は旧年中にやるべき年賀状の作成を翌2001年に持ち越してしまった。そこで、年末にこのホームページを造ることを思い立った私は、その予告を兼ねて富士塚の写真を年賀状のネタにすることにしたのである。
 さて、写真を撮るに、社務所に一言断っておいた方がよかろうと思い(三が日ならではの思いつきである)、社務所の呼び鈴を押して出てきたのが禰宜のK氏であった。撮影の許可を頂戴しようと富士講の話をすると少しは信用してもらえたと見えて、ご親切にもご自身で作られたものを含む富士講の資料を何点か貸して下さり、しかも山包講のマネキまで頂戴してしまった(写真・世話人の名前を列記しているので折り返して隠している)。初対面にも関わらず信用してくださったのはとても有難い。この場で感謝申し上げます。結局、私はこの後数日にわたってこの神社にお伺いすることになってしまった。さらに、K氏のおじが宮司を勤めているという同じ区の神社の講の先達が所持しているという食行身禄像のことまで教えてくださり、拝観できるよう手配してくださったのだが・・・、この話は後日にしよう。

山包講のマネキ・下部は名前を列記しているため、折って隠してある

 山包講のマネキの話が出てきたが、この神社の講は山包講の元講なのだそうである。もとは浅草に元講があったものの、そちらが消滅してしまい、都内で唯一となってしまった。ただし、この綾瀬の講も氏子の組織としては存在するものの富士登山も法会も行わない、ということである。個人的な感想としては、それでは富士講とは言い難いのであるが、最近の、特に塚を神社に持つ富士講は大抵そのようなものである。文政九年の銘がある拝み箪笥は有名で区の文化財である。私は見たことが無いが山開きの際には見ることもできよう。
 山包講といえば房総半島で大きな勢力をもっていた講である。この講の呼び名はどうも人によって違う。私が知るだけで「やまつつみ」「やまかね」「さんぽう」・・・どれが正しいのだろうか。
 ともあれ、富士塚である。この閲覧室では講堂などと違って「お気楽」をモットーにしたいので、詳しい引用はなるべくしない。塚は鉄柵が巡らせてあるので立ち入りできない。何度か位置を変え組み直しているから、石碑の配置も忠実ではないということであった。もとは入って右手にあったというから大きく動いていると見てよい。さほど大きい塚ではなく形としても急峻である。塚頂にある石祠がいかにも新しい。
 最後に、文献の引用をしない代わりに塚の傍らに立ててあった足立区教育委員会の掲示を全文を示そう(一部ルビがふってあるのでrubyタグを使っているが、対応していないブラウザでは《》で表示される。また環境によってはrubyタグ以降のフォントの制御が無効になるようだ)。

綾瀬稲荷神社富士塚
綾瀬四―九―九

この富士塚は、神社境内右手南側にあったが、昭和二年に現在地に移築された。
塚は、溶岩で固めた岩山であり、高さが約二メートルある。
富士塚の頂上には、浅間社を祀つるほこらが安置され、裏面には昭和二年七月一日の銘がある。
塔碑のうち、明治四十二年七月、山包丸渕講中の碑は、先達金子五兵衛外世話人によって献碑されたものである。最も新しい碑は山包さんぽう綾瀬講富士登山記念碑で、昭和三十六年七月に建立している。
講社は、はじめ山包丸渕講といい、この地の旧名称渕江領の頭文字を丸で囲み、丸渕といった。農民を中心に綾瀬村で結成された。江戸時代より農民に広まった富士山信仰を伝えるものとして、この富士塚を昭和五十八年十二月に、また、山包丸渕富士講関係資料一式を昭和六十二年十一月に、それぞれ区登録有形民俗文化財とした。
平成五年三月

・・・山頂の祠は到底昭和二年のものと認められない。調べてみると、この石祠は昭和五十二年に建立されたものであることがわかる。よって、この解説は何かを孫引きしたものだろう。この手のもっともらしげな解説は「話半分」にしておくのが無難である。

参考文献(調べていないのではない。文中で使わないだけだ)