栃木県大平町の大平山神社
▼大平山再訪
この原稿は探訪から七ヶ月以上も過ぎてから書かれている。記憶とデジカメの画像のみを頼りに書こうとしたら、やはり不十分なので再度訪れる羽目になった。しばらく書かなかった理由は単に怠惰なだけである。
何年か前の大晦日から正月にかけて、私は栃木県にある岩船山、馬不見山から大平山へと縦走したことがある。縦走といっても大したものではなく、紅白歌合戦を聞きながら東武日光線の静和駅を降り、大平山神社で初日の出を見ようという企みだった。その前の年の大晦日に相州大山に登ったのだが、満月だったこともあって首尾よい登山となった。それに味をしめて次はもっと手ごろな大平山を選んだのである。
その際、大平山から新大平下駅へ下山したのであるが、その途中の道の傍らに小さい富士塚らしきものがあることに気づいた。それが目的ではないためよくは見なかったが、それはあきらかに富士講のものであった。そして年月は去り、当富士講アーカイブで富士塚探訪を考えたとき、真っ先に脳裏に浮かんだのがこの塚だった。何も武蔵にあるものだけが富士塚ではあるまい。栃木県の富士塚を紹介したWebpageはまだ無いと思う(2001年8月現在)。ただし、以下の駄文が紹介に値するものであるならばの話だが。
今回は山行なので、それらしく山行記録を掲げておきたい。時間の表示は地名の前なら着を示し後なら発を表す。下の下手な図は行程を示した模式図である。
7:35北千住駅―8:54新大平下駅―9:20客人神社―登山口9:32―富士塚10:00―謙信平10:30―神社本殿10:41―11:00富士浅間社11:05―鞍部11:24―ゴルフ場―鳥居11:42―12:00昼食10分―12:30大平山頂―12:40山頂下から晃石への道標―大中寺への分岐12:55―晃石山頂13:23―13:55桜峠14:09―車道14:25―清水寺14:30―15:45出発―16:10大中寺―16:25出発―16:40客人へのわき道―16:48登山口(9:20のところ)―16:52塚から客人(脇道を行く)―17:14新大平下駅―18:50北千住駅
北千住駅から新大平下までは準急である。曇っていて秩父や日光は見えたが富士山は望めなかった。新大平下駅から線路に沿って歩き出し、客人神社に立ち寄る。客人神社の社殿は階段の奥にある。何を祀っているのか見当もつかないが、手だけは合わせておく。
この社殿から左へ小さい道があり、ここを進むと富士塚の前に出るが、ここではまた下りて大平山の登山口へ向かう。私が以前来た時には、客人神社入口から登山口へ少し進んだ角に富士講の石碑があったと記憶していたが、それらしきものがない。あれ?とおもっていたらどうやら塚の前に移動していたようである。なぜであろうか。
左は客人神社入口。本殿は脇の鳥居をくぐり石段を登った奥にある。正面の建物には石造の地蔵菩薩他数体の石仏が安置されている。この堂の向かって左側の道標あたりにその碑はあったと思う。右は神社本殿。 |
富士塚は登山口から登ってすぐのところにある。山道の登る側から向かって右である。ただし、我々がよく知る黒ボクを貼りつけたようなものではない。少し高く土を盛ったところに石の階段を置き、頂上に石祠、周囲に石造物を配している。高さもさほど高くなく数メートルというところだ。
周囲の石造物は、一般的な富士塚と異なって現実の富士山にある場所を模したものではない。富士山を模しているものは頂上の浅間神社の石祠(年月日無し)と中腹向かって左の小御岳大神(皇紀2600年=1940)だけである。近世(寛政十二年1800と万延元年1860)の庚申塔が塚の中腹正面に二基あり、その下の鳥居の後方脇には大正十三年(1924)の青麻大神(宮城県仙台市にある青麻神社)の碑がある。この碑は再建されたものでその裏に割れた同様の碑がある。背面の銘によれば、大塚源作(二代目永行・後述)の講中に分霊したとある。塚の前の鳥居は大正七年(1918)に同じく大塚源作によって建てられたものである。石段の途中に「奉」「納」をそれぞれ刻む小さい円柱が脇に二つあるが、それは鳥居の残骸だったかもしれない。
写真上は中腹から。下左は塚の側面、下右はややはすに正面。下左の写真、石段からはずれて向かって左に立つのが小御岳大神の石碑。石段に沿って手前から、青麻大神、旧鳥居跡(?)、庚申塔二基(向かって左が寛政、右が万延)、浅間神社祠。 右上は配置の模式図。字が汚いのはほっといてください。 |
この他に富士講の記念する関係の石造物は三つである。(1)山道の鳥居(塚のものとは別)脇にある昭和十五年(1940)の「(割書)支那事変皇軍/将士武運長久 壹百度祈願碑/貴族院議員陸軍中将男爵淺田良逸書」、(2)明治二十八年(1895)建立の角柱型をした「御内八湖修行/御中道修行/登山三十三度報恩璽/権少講義晴山永行大人命」(塔部正面)、(3)大正九年(1920)の「御内八湖二十一度修行/御外八湖五度修行/登山百八度/御中道八度大願成就/大教正二代晴山永行大塚源作/正三位子爵戸田忠友書 関根藤太郎謹刻」(碑部正面)という大き目の碑の三つである。これを立てた講は晴山講といい、晴山永行という先達の行名からとったもののようだ。初代は大塚安右衛門という人で六十歳で亡くなったと(2)の向かって右面にあるので、この二人が親子か少なくとも縁者であろうことは想像に難くない。しかし、(2)を建立したのは大字下皆川在住の二代目富山禄行なので、二代目永行は晴山講では三代目の先達となる。また、初代晴山永行の没年と登山回数を考えると、講自体は早くても幕末の成立であろうことも想像できる。同時にこの講の御師は上文字家であったことも判明する。登山口に、大正十四年の御大典記念の石碑が立つが、その発起人として大塚源作の名がある。それには「富山村大字下皆川」とあるので永行の二人も禄行も下皆川の人であることがわかる。
上段は登山口の御大典記念碑。下段は左から(1)(2)(3)。どれも極端に暗かったり木漏れ日が強く当っていたりでかなりの補正をかけている。デジカメはこういう時に便利。 | ||
(1)の背面の文によれば「支那事変が昭和十二年に起きてから日本軍の武運長久を祈るため客人神社の前に集まって修行を百回行った。折りしも皇紀二千六百年なので記念してこれを建てる」ということ(要旨)で、私が以前客人神社入口で見たのはやはりこれだと思う。ここでいう「修行」とは富士講の拝みなのであろうか。そして、現在もこの晴山講は存在しているのだろうか。また、その脇に立つ明治三十九年(1906)建立の山道をまたぐ鳥居には「奉謝大願成就神恩明治三十七八年戦役従軍兵士」とあり、富士講の石造物を建立する動機として戦争が関係することは興味深い。なお、山道の脇には「浪滄」とある(左から読んで「滄浪」)水盤は明治十三年のもので、やはり大塚源作の発願による。
この講の紋は○に卍である。この紋は栃木に多く晴山講もその一つということになる。(2)と(3)の正面上部にこの紋が掲げられているが、そればかりではなく塚上の浅間祠の懸魚(げぎょ。寺社建築で屋根の破風に使われる飾り。梅鉢懸魚や鏑懸魚などがある)にあたる部分にも卍がある。祠を見るときはこういう所にも目が行かなくてはならない。この紋について岩科小一郎氏は
下野(栃木県)、上野(群馬県)地方には卍という講が多い。(中略)卍は御身抜に“卍角行”とあることで、角行をあらわすマークになっている。(中略)北関東の卍講は(中略)栃木・群馬県下に無数にあったと思われる。(中略)
江戸にまだ富士講が発生しなかった頃に、足利地方には角行直系の富士信仰が活発な動きをしており、それが卍講になったという想定はまちがっていないと思う。足利地方の富士講(卍講も含めて)の行態が、江戸の富士講と、現在でも少々ちがうという人もある。どのようにちがうかは不明だが、富士講研究の今後の視線を足利地方に向ける要があることは確実である。
『富士講の歴史:江戸庶民の山岳信仰』(名著出版、1983)、p.113f
と言っている。法家系のものが月行系に繋がっていくかどうかはなんとも言えない。法家系は基本的に「講」ではないからだ。ただし視線を向ける必要があるという点だけは私も首肯する。
左は卍の懸魚。ボケてて申し訳ありません。右は「滄浪」の水盤。 |
▼一度来た山道でなぜか迷う
写真撮影ばかりの塚見学もそこそこに大平山へ登ろう。道はよく整備され、これからはお気楽で楽しい低山ハイキングになる(・・・はずであった)。謙信平で曇りがちの関東平野を一望し、神社本殿を通過する。本殿の脇の山道に入り、水田の平野に浮かぶ筑波山を脇に望みつつ、まっすぐ登ると山頂と晃石(てるいし)山に至る尾根との分岐に出る。山頂への道には注連縄が張られており、これをくぐると山頂の富士浅間社に至る。この浅間社は形(なり)こそ小さいが、晴れた夜ここに来ると、この社が北極星を背負って鎮座ましましている様が見え、なんとも壮大な気分になる。傍らの掲示板にはこの神社の名を記した旗に関する風習のことが書いてあるが、詳しくは写真をご覧いただきたい。
左上、大平山神社の本殿。右上、山頂への分岐。左下、山頂の富士浅間社。その脇にある道が・・・。右下、傍らの掲示板。 |
さて、本来ならまた戻るか社殿前にある道を降りて尾根沿いに晃石山へと向かうはずだった・・・。が、しかし、何を考えたか私は社殿脇にある道を行くことにしてしまった。尾根のはずなのに高度がどんどん下がっていく。道も随分荒れている。おかしいなーと思っているうちに(気づけよ>自分)、麓のゴルフ場に出てしまった!見たことのない風景にあぜんとする私。持ってきた地図にも載っていない。前はゴルフ場なんか来たことなかったよなあと思って、そこで工事している作業員の人たちに話を聞く。結局私はそのまま下山してしまったのだ。
ゴルフ場を出て大平山神社に戻るしかないと聞き、愕然とする私に作業員が、ゴルフ場の前までトラックで乗っけてってやるという。トラックの荷台に乗るのは初めてなので、わーい!と一転して喜々と揺れる荷台の上からゴルフ場を突っ走った。
気のいい作業員たちにトラックで運んでもらった後は、大平山神社までの車道をとぼとぼ歩いていった。一応富士塚も取材してきたし、山頂にも行ったし、予定より大幅に早いがこれで良しとして帰るべか・・・、なとど思っていたら車道の脇にぽっかり大きな鳥居があった。本当に車道の脇にぽんと立っていて、その鳥居の先には社はおろか道もない。しかし、私は考えた。なぜこんなところにこんなものがあるのだろうか・・・?廃棄されたお宮に残されたものかとも思ったが、それにしては大きすぎる。この先は先のよく見えない林であるが、このサイズを考えたらこれは山頂の社に対する鳥居でしかあるまい。つまりこの先は大平山の山頂へ続いている?!そう思いつくと、なんとか進んでみようと思った。
道のない山肌ではあったが、空き缶が落ちていたりして、いよいよこれが山頂に続いていることを確信した。途中乗越したところで昼食をとり気力を回復させると再び上へ上へと進むことにした。道は整備されていないが、確かに人の通った跡があり、途中目印のスリングが木に結わえてあるのも見た。どんどん傾斜がきつくなっていき、目印も無くなって、不安になりながら羊歯の茂る斜面をよじ登っていくと・・・、ぽっかり山頂社殿の右脇に出た。結局大きく一周したが、元の場所に戻ってこれたのであった。しかしこの程度の山で迷うとは、元山岳部員も形無しである。情けない。
左、車道脇に立つ鳥居。その先は少し開けているだけで道はない。右、山頂から自分の来たところを振り返って。はっきり言って道のない斜面。鳥居から登っている途中、写真を撮るどころではなかったので、せめてと思い。 |
それからはウソのように順調なハイキングであった。もう間違わないように社殿正面から降りていき、晃石山への屋根に合流。そのまま晃石山を経由して、桜峠で下山することにした。このまままっすぐ行けば馬不入山に至るが、余計なロスをしたこともあって時間的に厳しそうだったので、そのまま下りた。
それからは途中大きな禅寺である大中寺に参った後、迂回してまた登山口に戻り、富士塚脇から客人神社社殿前に続く間道を行った。これで気持ち的には(?)完全に歩ききったように思った。
桜峠には四阿がある。かつて来た時は午前二時、当然休憩している人は誰もおらず(いたら怖い)、大晦日の寒風吹きすさぶ暗闇の中ラジオを友として一人休憩したものである。実はこの時一旦気持ちがくじけて下の清水寺(せいすいじ)まで降りたのだが、また気を取り直して20分の道を登り返したのだ。あの時そのまま下っていたら富士塚を見つけることもなかっただろうし、こうしてWebpageで取り上げることもなかったであろう。初志貫徹とは大げさだが、そのまま登山を続けてよかったと今になって思う。
今回は写真と文章が満載となってしまった。かなり重いpageになってしまったが、最後まで読んでくれた方に感謝したい。