東京都新宿区西早稲田の高田水稲荷神社

▼最古の富士塚

塚上部(下山道から)

 書く書くといってなかなか書かなかった高田富士のレポートである。この富士塚は富士講史上最古のものとして、富士講に関わる人にとっては有名すぎるほど有名である。また、この塚についてはその造成の様子が同時代の狂歌作者朱楽菅江の『大抵御覧』にあたかもニュースの如く取り上げられており、その点でも話題性がある。この記事について詳しくは原文を参照していただきたいが、かいつまんでいうと、以下のようになる。

長四郎という植木職人がいた。彼は毎年夏と秋に富士を詣でて五十五度、中腹を一周する中道という修行を三十三度したというほど熱心な浅間信仰の人で、今年安永八年(1779)に宝善寺の境内に浅間大菩薩を勧請しようとして二月三日から傍らの山を崩して山を積みはじめたところ、諸人がこぞって協力して五月二十八日に各方面の僧侶(山伏か?)を呼んで山の開眼を行うに至った。(注1)

 長四郎とは、現在も早稲田にその末裔が残る丸藤講の祖の日行青山(にちぎょうせいざん)こと藤四郎のことである。また宝善寺は早稲田大学の並びにある宝泉寺のことで、ここには行名をとって「日行墓」(背面・天明二年壬寅五月十七日=1782)と書かれた彼の墓石がある。高田水稲荷はこの宝泉寺が別当を勤める神社である。元禄の頃から、今は寺の隣家にある榎の大木(戦災で焼け焦げてしまい今は枯木となっているらしい)から眼病に効くという霊水が湧いていたため、戸塚稲荷と呼ばれていたこの神社は水稲荷として人を集めていた(注2)。

藤四郎の墓 江戸名所図会に描かれた高田富士(江戸名所図會巻三〔『日本名所図會全集』、名著普及会、初版1928、覆刻1975〕所収、p.1106f.)
藤四郎の墓江戸名所図会に描かれた高田富士(江戸名所図會巻三〔『日本名所図會全集』、名著普及会、初版1928、覆刻1975〕所収、p.1106f.)

 昭和四十年(1965)、早稲田大学の拡張により400m程西にある現在の甘泉園に神社が移転してしまったため、塚もまた分解されて移転した。塚のあったところには大学の校舎が建ち、『江戸名所図会』の挿絵にあるような、神社の敷地に大きな山が立つ風景(注3)はとても望めなくなってしまった。このことが神社の独断で行われたとして(注4)、地元の富士講で藤四郎の末裔でもある丸藤宮元講社や彼らに親しい研究家の岩科小一郎氏は反発した。彼らは移転後のものを「・・・「富士塚もどき」であって本物ではない。われわれ富士塚研究者としては、形ばかりで精神のこもっていないものは、富士塚と認めたくない」(注5)として、富士塚とみなさないという態度をとっている。岩科氏は更に「移転後に建った早稲田大学校舎を使う商学部の先生や神社・工事の関係者が相次いで死んだ」とか「早稲田大学は札束で顔を張るようにして土地を買収した」などと言っていたようであるが、御大と弟子から崇められる人が何も子供っぽくてチャチな中傷をすることはないのに、と個人的には思う(こんなこと言ってるから嫌われるんだね、私は)。私は岩科門下ではないので、これを富士塚を認めることに一向に問題を感じない。

▼塚に登る

 さておき、移転後の高田富士は今書いたように原形を留めずに移転してしまったが、それでよければ年に一度だけ見ることができる。以下、そのレポートをしたい。
 山開きが開かれるのは2001年は7月21日と22日だった。町内のあちこちに「高田富士祭り」として告知が張り出される。祭り自体は夜からで、私が初めて訪ねた21日の昼間の神社に人影はまばらだった、。ただ、普段鉄扉で閉められている塚の入り口は開いていて、塚の脇にある物置(?)でなにやらごそごそしているおじさんがいる。たぶん氏子だろう。彼に塚の話を聞くと、昔は富士講がやってきたけれど最近は見ないという。それもそうだ、上に書いたように彼らとは絶縁状態のはず。

高田富士祭りの告知
高田富士祭りの告知

 この塚は、馬場となっている直線のコースの端、弓道場の裏手にある。神社正面の階段を登って右手、甘泉園の入り口手前である。この日ばかりは入り口に提灯が飾られ由緒を解説した看板がかかっている。塚の周囲が建物に囲まれているため人目につきにくく、高田富士から離れた神社本殿裏にある富塚と間違える人が多いらしい。この富塚は稲荷信仰の塚で、登ると稲荷社の石祠やら狐の石像がここかしこに置いてある。実は私もこの塚の存在を知ったのはつい最近である。高田富士ばかりに目が行っていたからだろう。因みに富塚の元あった場所(早稲田大学西早稲田キャンパス内)には新宿区教育委員会の案内板が立っている。早稲田通りに面した入り口から入って校舎の並ぶキャンパスに至るまでの細い道の間にひっそりとしたところである。

入り口(左手鉄柵の奥) 富塚
入り口(左手鉄柵の奥) 富塚
富塚の案内板 登リ口の祀堂
早稲田大学西早稲田キャンパス内にある富塚の案内板登リ口の祀堂

 登リ口には「浅間神社」という額が掛けられた木製の祀堂がある。祀堂の前には狛犬がいる。この祀堂は普段からでも甘泉園の入り口からでも見える。鉄パイプの手すりがついた登山道を登ると中腹にずんぐりした石祠がある。塚向かって右手から登り、左へ巻くようにして頂上につながっている。
 この頂上は少し広くなっており、小ぶりの石祠と水盤がある。前者の祠を小御岳神社とすればこれは浅間神社である。石祠二つも水盤も記年銘は見当たらないが、形からして頂上の石祠が古く、小御岳神社は明治に入ってのものではないかと思う。石祠向かって右手にП字状の木組みがあって、そこに吊るされている木札にはこうある。「鉦の打ちかた カーン カーン カンカラカンのカ~ン 長閑に二回です」。鉦は祭りの間に鳴らされるもので、初め登った時には懸かっていなかった。
 下りは頂上左手にある下山道を降りる。夏、潅木の繁った道なので薮蚊に悩まされた。降りたところは祀堂の並びにある胎内を模した穴の前である。この穴は人一人くらいしか入れない小さいものだが、前に鉄柵がはまっていて入ることはできない。しかし、その有名さにしてはあっけない行程だった。

塚頂上 小御岳神社
塚頂上小御岳神社
胎内と石碑
胎内と石碑

 塚にはこの他にも多くの石造物がある。まず、祀堂の脇にある大ぶりな水盤である。「奉納」の二字は篆書体で、輪郭のみを薬研に彫りくぼんでいる。その間に十六弁の菊の紋があるけれども、何か意味があるのかどうか定かではない。次は小御岳神社より離れていないところに立つ題目の石碑。「寛政八丙辰年六月吉日」(1796)とある。この石碑の傍らには、ここが経ヶ嶽であることを示すためのものと思われる石柱の破片がある。上部がぽっきりと折れたようだが、それは見当たらない。そこには「經ヶ嶽/冠日親直筆/きやうがたけ」とある。「冠日親」とは日本史の教科書にも出てくるほど有名な日蓮宗の鍋かむり日親(1407-1488)のことと思われる。彼直筆の題目が経ヶ嶽にあるという話は聞いたことがないけれども、石碑の題目は日親の筆跡を模したものかもしれない。
 講中の石碑が中腹より下の潅木の間に二つある。一つは「牛込元講[社?]」とあるものも、今一つは正面にびっしりと人名を刻したものである。後者の背面には「奉納 建石/関口講社」とある。今回は石造物を見るのが目的ではないから詳細に見ていないことをお断りしておく。
 登り道を進み、山頂へ巻き返すところから麓を見ると、ここにも石造物がいくつか転がっている。まず、大天狗と小天狗の首の落ちた石像。「青山日行翁」とある石碑。句碑。原形のよくわからない石造物の破片。そして宝筐印塔の部品と思われる石造物。狛犬と思われる破損した石像。これらはその状態からどこかしら破損しているためにまとめて置かれているものと思われるが、句碑や「青山日行翁」の碑などはそう破損しているわけでもない。
 最後に胎内の傍らに石碑が二つある。高田藤四郎は船津(現・山梨県河口湖町)にある船津胎内の発見者としても有名である。食行身禄の『一字不説の巻』には神々が富士山周辺の洞窟から出生してくる神話が説かれるが、その出生地こそ彼の発見した洞窟であると喧伝され、安産のご利益を求めて(その辺はフィクションながら『滑稽富士詣』がその様子を伝えていて面白い)信仰を集めた。今でも船津胎内には藤四郎の木像がコノハナサクヤヒメノミコトとともに祀られている。さておき、胎内の傍らの石碑は一つは明治十五年、もう一つは大正二年のものである。後者は塚の脇に立つ物置の壁に添って立つ大きなもので、「講祖日行藤四郎翁開發露/富士山北口胎内窟模造」と題されている。

題目碑 胎内脇の物置に立つ石碑 中腹の石造物(正面は人名がびっしり)
題目碑胎内脇の物置に立つ石碑中腹の石碑(その一・正面は人名がびっしり)
日行碑 石像破片 小天狗石像
日行碑石像破片小天狗石像
祀堂脇の水盤 大天狗石像
祀堂脇の水盤大天狗石像
宝筐印塔の部品 「経ヶ岳」石柱
宝筐印塔の部品「経ヶ岳」石柱
狛犬? 中腹の石碑
狛犬?中腹の石碑(その二)

▼高田富士祭り

 「高田富士祭り」は夜からのお祭りである。町内会による露店が馬場に並び、弓道場の前には櫓が組まれて盆踊りを踊る。踊るのは地元のご婦人と踊りの社中である。私は見なかったが、メインに演歌歌手を呼んでいるらしい。また、馬場沿いに地元や早大の学生から公募した川柳が一首ずつ半紙に書かれてずらっと貼られていた。時節柄小泉首相や野球のイチロー選手にからめたものも多いが、「大臣を だすたび下がる 早稲田株」のように早稲田大学を肴にしたものもあった。

盆踊りの櫓 露店の賑わい
盆踊りの櫓露店の賑わい
三幅と仮のご神前
三幅と仮のご神前

 馬場の中央には「高木大神」「石長比賣命」「木花之佐久夜毘賣命」と書いた三幅の軸が掛けられた仮の神殿が設けられており(「高木大神」の軸は移転前に末社の高木神社を合祀したため)、その脇では若い衆が「夏祓守」という松の葉を付けたお守りやら「水守」という小さいお守りやら蝋燭の入った提灯やらを売っている(本来ならこういうところで「売る」と言ってはいけない。某祈祷寺院で数年アルバイトをしていた経験から言うと「頒布する」とか「お分けする」とか言う)。私はつい全部買ってしまった。

夏祓守
夏祓守

 しかし、メインはやはり富士塚なので、町会長らしき人が盛んに塚の前で人をつかまえては塚に登るよう勧めている。塚の登山道は鉄パイプに沿って電飾でライトアップされ、山頂では焚き火が焚かれている。先ほどの木組みに鉦が吊るされており、町内会の人が一人詰めて登ってきた人に鉦をたたかせている。「大変ですね」と冷やかすと、「役目ですから」と苦笑しながら答えていたように思う。登ってくるのは家族連れなどが多く、子供なども鉦をカンカン叩く。次の日・祭り二日目の日中も鉦は吊るされおり、時折人が叩くたびに鉦の音が塚に響いていた。

登山道のライトアップ 胎内前のライトアップ
登山道のライトアップ胎内のライトアップ

 塚が開くのは一年でこの時だけとあって、ついついそちらの方に目が行ってしまうのは、富士講に興味あるものの性である。しかし、講中と絶縁しようと研究家たちが富士塚と見なさなかろうと、そこにあるのは全国どこでも見られる夏祭りの風景であり、神社の一部として祭りに融けこむ高田富士である。確かに丸藤宮元講社は都内で現存する数少ない富士講だし、彼らの存在は富士講研究において無視することのできないものである。しかし、今こうして富士塚に登って「(富士講の、ではなく)神社のお祭り」を楽しむ地元の人たちを思うと、現代の富士塚を巡る環境は必ずしも富士講の関与を要求していないし(当然ながら宮元講社がこの祭りに参加することはない)、それでも富士塚に関わる祭礼が成り立ってしまう。衰退の一途をたどる富士講と地元の宗教的な意識に存在をアピールできる富士塚とでは自ずと待っている将来が異なっているように思う。未知なる富士塚の発見に血道を上げるのも富士塚研究の一法だが、こうしたところから富士塚と地域社会の関わりを考察するのも研究としては面白いのではないだろうか。

注1:『洒落本大成』第九巻(中央公論社、1980)所収のものから要約した。
注2:別所光一「高田富士の考古学的考察」(『あしなか』38輯)が移転前の塚の様子や由来に詳しい。特に旧態の見取り図は大いに参考になるだろう。この論文は岩科氏との共作かもしれない。また、最近では福井光治『富士塚探訪』(1991、福井光治)のレポートが冗漫な文章ながら榎の現況を伝えていて(p.11f.)面白いが、悲しいかな、福井氏は富塚を見て高田富士と誤解したようである。余談であるが、大学院在籍の折、私の修士論文を考査したのは早稲田大学出身の伊藤瑞叡先生(立正大学仏教学部教授)であった。当時、彼に高田富士の話をしたところ「学生の頃よく登って遊んでいたよ」と仰っていたことがある。
注3:上に引用したのは『江戸名所図会』巻三(日本名所図会全集、名著普及会、1975)p.1104f.。右奥の富士山の手前左にある神殿が稲荷、右が浅間社。宝泉寺は富士山よりずっと手前、画面右下の建物。
注4:その辺の事情は『あしなか』148輯p.9に詳しい。
注5:『A』、p.57。