東京都文京区の白山神社

塚に咲いてた紫陽花(サムネールのみ)

▼文京あじさいまつり

 富士山を模したとされる富士塚も、その表面がどのように処理されるかは一定していない。ボク石とよばれる溶岩を貼り付けたり土肌そのものだったり、地域性のようなものは一応あるとされているけれども、塚によってさまざまである。ここで取り上げる白山神社の富士塚は紫陽花の植え込みで覆われていて、梅雨時に行くと塚は満開の紫陽花に埋め尽くされる。紫陽花で塚の表面を覆っている富士塚は管見の限りここしか知らない。この塚は普段門扉が閉じられていて立ち入ることができないのであるが、年に一度、梅雨時に「文京あじさいまつり」なるイベントが白山神社で行われており、神社の周囲が紫陽花と人出でいっぱいになると同時に富士塚も開放される。外から紫陽花づくしの塚を眺めるのもよいが、せっかくの機会なので登ってみよう。

▼紫陽花づくし

 白山神社へは都営地下鉄三田線の白山に下車、地上に上ると参道のそばに出る。最近ではエレベータができて、その地上側出口が即参道の入り口である。日曜とあって吊るした灯籠の並ぶ狭い参道は混雑しており、面している瀟洒なオープンカフェは待ちの行列ができるほどの盛況である。神社のみならず、参道に面した住宅でも紫陽花を栽培しており、その前も鑑賞する人で埋っていた。
 今行こうとしている富士塚には富士講碑が二基確認できる。が、二つとも塚上には無く、いずれも神社手前の行き止まりとなる路地に置いてある。路地とはいえ、それは塚の麓でもあり紫陽花を植える際に降ろしたものか。駅エレベータの脇に、塚の向かいにある白山公園への案内板があり、そこには「」とある。となれば、紫陽花もこの時に植えたものとも考えられ、その時に碑を移動させたものだろうか。一つは山水講のもので上半分しか地上には出ていない。折れているのか残り半分が埋っているのか外からではわからない。山水の講紋に「大願□(以下不明)」と大書しているが、「願」字より下がわからない。「成就」ではなさそうである。その脇に「穐行」とあり、いよいよ山水講らしくなってくる。年代は背面に文政とあるのが読めるが、天水桶がぴったりと置いてあってその下は読めない。ただし、もう一つの碑に「文政五壬牛歳五月吉祥日造立」とあるので、同時に建てられたものなら年代も同じかもしれない。こちらの碑は講紋がよくわからない。「国」を崩した字をモチーフとしているように見える。向かって右の断面に「指ヶ谷町壱丁目/同二丁目南片町/若者中」とあり、地元の講であることが知られ、「同行」とある碑正面の脇に小さく「先達平吉」とある。おそらく、塚を築いたのはこちらの方に違いない。なぜなら、穐行は木更津の人であり、山水講は房総を拠点とする講だからである。ただし、沖本博「山水講について」(『富士信仰研究』第2号、2001)によれば駒込にもあったようなのでその関係だろうか。

白山神社参道 山水講の石碑 講名不詳の石碑
白山神社参道 山水講の石碑(サムネールは部分) 講名不詳の石碑(サムネールは部分)

 鳥居をくぐり境内に入るとそこは人出と色とりどりの紫陽花であふれかえっていた。案内板によれば、ここには十種類ほどの紫陽花が咲くようで、色もさることながら花の形も多様である。地元の町内会が境内の中央に模擬店を出しているため、もともと狭い境内が更に狭く感じる。紫陽花を愛でる人、写真を撮る人、さまざまである。本殿にも参拝者の行列ができ、私は並ばずにそこそこのご挨拶で周囲を歩き回る。

白山神社境内 社殿の行列
白山神社境内 社殿の行列

 さて、塚に登ろう。神社から富士塚に行くには社殿と社務所の間に架けられた渡り廊下の下をくぐらなければならない。その先の右手が塚、左手が白山公園である。この公園については白山駅前の掲示板にこのようにある。

 白山公園は明治24年(1891年)市区改正設計(今日の都市計画に相当)によって作られた、文京区で最も古い公園です。
 以前は、白山神社の本殿前の境内地にありましたが、第二次大戦後、社殿裏手の現在地に移りました。昭和53年に改修工事を行なった後、翌54年からあじさいを植え始め、現在では白山神社の境内地と合わせ、文京区花の五大まつりのひとつであるあじさい祭り(6月中旬~下旬)の会場となっています。
 平成3年文京区

 実は白山神社の富士塚について、富士塚を集成した諸資料中に大した記述を見つけることができなかった。『A』『B』『C』、『D』いずれにも記録がなく、『富士講の歴史』には破却とある有様である。唯一、富士塚調査研究委員会編『富士塚調査報告書』(富士市立博物館、2002)に、「高さ10m・古墳転用か?―山水講、文化13年再建―塚上に文政5、6、9年の石碑あり。寺社書上に文化13年に塚上に浅間社を祭ったという記載あり」と紹介されている。石碑が三つというが私には二つしか見つけられなかった。塚入り口に庚申塔があるけれどもそれのことでもあるまい。古墳転用ともあるが、その根拠もわからない。よく富士塚について古墳から転用ということが言われるけれども、実際に考古学的な調査が行われてそのように認められる出土品が出てこない限り、そのように言うのは軽率であると考える。
 ともあれ、これだけ塚に関する言及に乏しいのは何故か。何故岩科小一郎氏はこの塚を破却としたか。おそらく、昭和53年から公園を移転して紫陽花を植え始めたということに関係しているのではないか。深く入ることは避けるが、昭和50年代以前と現状とは全く状況が違っていたのではないか。もしかして、高田馬場の富士塚と同じく一度壊されて移転したものかもしれない。
 ともあれ、塚に登ってみよう。公園も塚もやはり紫陽花で埋め尽くされている。この塚は普段、鉄柵に施錠されていて立ち入りはこの期間以外できない。塚の入り口は登山者の行列ができていて、私も並ぶ。入り口の鳥居脇に延宝八年の庚申塔が建っている。しかしそれ以外、紫陽花で表面を覆われたこの塚に合目石その他の石造物はない。あっても背の高い紫陽花のために気づかないかもしれない。登山道は鉄のてすりに石段が敷かれており、短い道だが両脇の紫陽花を愛でながら登る。途中立ち止まり花の写真を撮っていく人もいた(冒頭の紫陽花アップは塚に咲いていたもの)。

塚入り口 塚に登る人たち 頂上から
塚入り口 塚に登る人たち。頂上まで行列が。 中腹から(サムネールは部分)。向こうに社殿が見える。

 山頂には木造の小さいお宮がある。周りを見回しても紫陽花に囲まれていて富士塚の記号たる石造物はおろか、富士山を連想させるものはない。その祠の傍らに、身舎のない石祠の残骸が置いてある。基部に何か文字があるようだが、草木の過密な場所にあってよく近づけない。懸魚まで彫られたその屋根(向かって右が大きく欠けているのが残念である)と基部の大きさから推するに祠は大振りのものだったと思われる。
 帰りはそのまま祠後ろから降りる道を行く。これは登りほど長くなく、すぐに別の鉄柵の門に出る。

頂上の祠(サムネールは部分)。 元の石祠。大きさと装飾の細かさがわかりますか? 降りたところ
頂上の祠(サムネールは部分)。 元の石祠。大きさと装飾の細かさがわかりますか?  下山道

▼おわりに

   今回、この塚や築造した富士講についての資料がまるで無いということが意外だったが、むしろここは富士塚よりもきれいな紫陽花を見に行くほうが楽しい。石造物も隅に追いやられている印象があり、山水講の大物である穐行による石碑があるにも関わらず、あまり関心は持たれていないようである。講についてはましてをや、である。また、向かいの白山公園では地元の子供たちによる集団ダンスの大会が行われていて、大変にぎやかであった。また祭りが終わればいつもの静かな一帯になり、塚もひっそりと佇むことだろう。