寛保二年禁令の裏事情

▼従来知られていた町触

 江戸幕府による富士講の禁令は寛保二年(1742)のものが初めてだと言われている。食行身禄が富士山で自殺して十年目の秋である。ただし、まだ「富士講」という名は現れていなかった。

 このことに触れているのは井野辺茂雄『富士の信仰』(古今書院、1928)p.164が知る限り初出であるが、禁令をまとめて取り上げているのは岩科小一郎『富士講の歴史』(名著出版、1983)の「富士講関係御触書集成」という一章である。井野辺氏はともかく、岩科氏は『御觸書寛保集成』を元ネタにしていることがそれにより知れる。

 最近、私はこの触書を調べているうちに、類似のものがもう一種類あることを知ったのでそれを紹介したい。正確に言えば、禁令が江戸町奉行から町年寄に下達されたものであるのに対し、これは逆に町名主たちから町年寄へ上申されたものである。前者が9月9日、後者が9月4日とあるので、この日付を信用するなら町名主→町年寄→町奉行→町年寄→町触という経路が考えられる。つまり、寛保二年の禁令は一方的に幕府から発令されたものではなく、町名主たちの苦情を受けてのものだったのだ。

▼文面の比較

 これから挙げるのはその二つの文面である(注1)。先に上申書を挙げよう。

戌九月四日
一年番名主寄合相談の上、左之書付相認、町年寄衆迄差出候
        以書付申上候
一近頃町方ニ富士加持水と名付、病人毎日水をあたへ、服薬仕候得は其薬を為止、加持水一通りニ為致、日々水斗為給、病気快気仕候得ハ、富士門弟と申事ニすゝめ込候由、快気仕候者ハ稀ニ、怪我有之者多御座候由風聞仕候、右躰之儀粉敷事ニ御座候間、申上候、以上
    戌九月        年番名主共

 次は既に知られている禁令のほうである。

        覚
此間町中ニ富士之加持水と名付、病人薬をも為相止、右之水数盃相用、万一病気快候得は、富士門弟と申なし勧込候由、不埒之事ニ候間、早々相止可申候、若於相背は、吟味之上急度可申付候、此旨町中可触知者也
    戌九月
右之通従町御奉行所被仰渡候間、町中不残可被相触候、以上
    九月九日        町年寄三人

 二つとも大体同じ事を言っているが、上申書が言っていて禁令が言っていないことがある。それは、「快気仕候者ハ稀ニ而、怪我有之者多御座候由風聞仕候」の一文である。要するに「そのやり方で治癒できた者はまれで、被害が多発していると聞く」ということであって、実害の風評といえるがこれに対して幕府は「不埒之事」の一言で片付けてしまっている。確かに病人に水だけ与えて治癒できれば医学など必要ないが、現実はそううまくできていない。

▼少ない情報からの推測

 ここでいう「富士門弟」がいわゆる富士講なのかはこれだけでは判然としない。ただ、「富士門弟」たちはこの手段を用いて活発に勧誘していることが窺われる。寛保の彼らの行為は町名主たちが上申しなければならないほどの規模・内容のものだったのだ。その一方で、角行系宗教にとって病気治癒が有効な布教手段であったことは事実である。
 また、この「富士加持水」が岩科氏や井野辺氏がいうように富士山頂の金明水の水だったかどうかも判然としない。彼らが金明水と深い関わりがあったのは事実であるが、タダの水を富士講的な(?)祈祷によって加持したものとも考えられる(あるいはオフセギと呼ばれる呪符を浮かべたものかもしれない)し、あるいはどこか富士山の別の場所で取れた水かもしれない。
 もし、一人の病人に一日当て「水数盃」だったなら、物理的にも多量に保有していなかった可能性がある。その点からすると富士山から持ってきた水ではあったかもしれない(単にプレミアをつけていただけかもしれないが)。しかし、それほど活発な活動をしているのなら消耗も激しかったはずで、それを考慮すると実際は普通の水だったことも考えられる。更に、金明水でないとすれば、これまた井野辺・岩科両氏が言うような山吉講やそれを率いる渋谷道玄坂の吉田平左衛門たちの所為ではない可能性も十分にある。

 つまりこれだけの文言だけで詳しい内容まではわからないというのがここでの結論である。奉行所も奉行所で、「吟味之上急度可申付候」というから実は弾圧とか禁令というほど厳しいものでもなさそうである。「事情聴取した上でお説教して釈放」する程度だとみるべきで、よく事情がわかっていないような戸惑いすら感じられるのは私だけだろうか。

 うろうろとした考察で恐縮だが、しかし独断と思い込みは厳禁である。少なくとも寛保二年の禁令を「のどかに富士山に登る団体が何のいわれもなく弾圧された」と考えるべきではない。「富士門弟」の手法自体、いろいろな意味で怪しい。しかし、岩科氏はこういっている。

・・・富士講ほど禁令を出された民間宗教はない。なぜに富士講がいじめられるのかわからないが、要するに勢力が強大であなどり難い民衆結社とみたからだろう。(注2)

 岩科氏の「富士講」はおそらく山村民俗としてのイメージだと思う。そういうイメージで富士講に接すれば、けだしその感想は正しい。しかし、私は「富士講」にもその実態を巡って多様な変遷があると思っている。勢力だけが問題とされるべきではない。富士講研究においては、彼らに対して何度も出された禁令を「いじめ」と取るのではない客観的で冷静な視点が求められるのではないだろうか。

  1. 出典は近世史料研究会編『江戸町触集成』第五巻(塙書房、1996)、No.6632、No.6633。なお高柳真三、石井良助編『御觸書寛保集成』(御觸書集成、岩波書店、1934)には後者のみがある(No.2849)。岩科氏はこれを参照しているのであろう。
  2. 『富士講の歴史』、p.351