紙とウェブの間で
▼論文とHTMLファイル
「茶飲み話」と銘打ったのは、通常の講堂のコンテンツとは違う裏話や雑文を書きたかったからである。「茶飲み話」は不定期に書かれることになる。
先日、私の六番目の論文「金明水と富士講」が日本風俗史学会の『風俗史学』第16号に掲載された。それは内容的には、第一講と第二講を合わせて加筆したものといえる。論文は紙という媒体によって発表され、このWebpageのコンテンツはインターネットという電子の世界で披見されるのであるが、論文とHTMLとでは向き不向きが自ずと異なってくる。
論文の長所として、
- 紙として残すことができ、簡単にコピーも可能
- とりあえず視力があれば特別な環境を必要とせずに読め、どこにでも持ち運べる
- (少なくとも文系の場合)掲載誌によっては業績として評価される
- 12000~20000字程度の長文が書ける
- 編集・印刷技術によって特殊な文字やレイアウトを可能にする
- 学会によっては抜刷を造ってもらえる
ということが挙げられると思う。
一方、HTMLファイルの長所は、
- 個人の資力で言いたいことを好きに言える
- 個人経営のサイトであれば締め切りをあまり意識しないで済む
- 画像や音声などを使いやすく、説得力を付けられる
- テキストに使う文字の大小や色まで簡単に調節でき、センスと能力があればデザインやレイアウトを自分で構成できる
- 環境があれば、見る側も費用をあまり意識しなくて済む
- 掲示板やメールフォームを使えば、読み手と双方向のコミュニケーションが可能になる。チャットによる直接的な会話も可能
ということにあると思う。特に文字やレイアウトの調節はMarkup Languageとしての本領だろう。
お互いに独特の長所を持っているが、同時に独特の短所をも持っている。論文の短所は
- 出版上の制約がある。特に限られた雑誌の紙数による制約は大きく、図版を大量に掲載することはできないし、またできたとしても学会によって決して安くはない製版代を請求される。それに枚数も多くて20000字程度が上限である
- 雑誌によっては厳しい査読がある(私は学術会議登録の学会にしか投稿しないことにしている。少ないリソースを効果的に業績へ結び付けたいからだ)
- 富士講のようなジャンル分けしにくいテーマで投稿できる雑誌が少ない
- 掲載が決定するかどうかは編集委員会次第で、しかも掲載が決まっても校正をしなければならず月単位で時間がかかる。雑誌の発行スケジュールに合わせなくてはならないのが普通。また原稿送付の費用や手間なども発生する
- 学会誌であれば学会に入会するか、大学図書館・研究機関にアクセスできなくてはならない。普通、学会と名のつくものの正会員での入会資格は大学院在学以上である
- 論文を書けば抜刷を造ってもらうのが普通だが、造ったら造ったでそれを送付しなければ読んでもらえない。しかし、数十人以上の人数にまとめて送付するのは(抜刷の印刷代は別としても)費用がかかる上に作業の負担も大きい
一方HTMLファイルには以下の短所がある。
- 読み手がインターネットにアクセスできる環境を備えていなければならない。しかもこのWebpageに限っていえば、携帯端末やiモードでのアクセスは全く考えられていないので(速報性は必要としていない)、少なくともパソコン以上の設備が要求される
- 論文以上に読み手の環境を考慮しなければならない。具体的にはレイアウトと、画像に関してである
- 古文書の翻刻のように、旧字・異体字を使ったり縦書きのレイアウトを使わねばならないものは不向き
- 作り手のセンス次第でかえって読みにくいpageができてしまう
- 少なくとも文系の場合、どんなに厳密なものを書いても実績として認められないのが現状
- 一枚のHTMLファイルに20000字のもの文章はとても書けない。読み込みに時間がかかるし、横書きということもあって読み手が飽きやすい。いいところ4000~6000字が限度であろう
- いかに通信が高速化しても全く無料というわけにはいかない
- 匿名性の強いインターネットにおける、実名をさらすことの危険性と存在感の希薄さ。ハンドルネームという一種の偽名を使っても公表はできるが、この場合大谷の創作物と主張しきれなくなる
- 画像やプログラムなどの著作権管理が難しい
- サーバ管理者から与えられている容量を守らねばならない
- インターネットという電子的世界における存在のあやうさ、はかなさ。このサイトとていつまでも恒久的に存在する保証は全くできないし、そもそもインターネットという世界自体がどれだけ続くのやらわからない
HTMLは確かに便利ではあるが、考案者である欧米の人たちが予想していないようなレイアウトに使うのは難しい(彼らに縦書きの文化は無いし、漢字も使わない)。
両者にそれぞれ向いたあり方
以上は思いつくままに列挙しただけなので、一貫性があまりない。ただ、これだけ列挙すれば各者に向いたあり方がおのずと見えてくるような気がする。
まず、長いテーマなら論文、短くていいのならHTML。画像を使わないのなら論文、数枚以上の画像を使うならHTML。ただし、解像度が必要なものはウェブには向かない。スナップなら72dpiでも良いが、古文書のような目を皿のようにして読まねばならないものは難しい。カラーで掲載できるのがウェブの魅力だけれども、個人の機材ではなかなか正確に発色してくれないし調整も面倒である。そして、業績としたいような硬い内容なら論文、査読を通らないような実験的な内容・こぼれ話が多く出てくるような内容ならHTML。・・・このように、TPOに応じて媒体を選択するのが賢いやり方だろう。
また、ウェブ―論文の連動も魅力ある選択肢となると思う。たとえば、古文書の翻刻は論文でやって、影印はウェブで公開する。ただし大きなファイルは貼り付けられないから別途工夫が必要となる。特性を生かしてどう効果的に発言していくか、ということが視点の一つとなるだろう。
しかし、最近痛感することの一つに、インターネットそのものが世代や人の趣味を選ぶということがある。特に富士講に興味を持つ人たちはお年寄が多い。なぜか理系人間ばかりのFYAMAP・富士塚調査グループ(私は除く)はともかく、世代的にパソコンに縁遠い人たちが多いので見てほしい人たちがなかなか見てくれないというむず痒い現象がある。携帯電話でもウェブができる時代、少しでもパソコンやインターネットに触れていただくようにお願いするしかないのか、それともいっそのこと世代交代を待つしかないのか。