食行や富士講が登場する小説

▼芝豪『宝永・富士大噴火』

 講堂で改めて扱うには向かない話題を扱う「茶飲み話」の二回目である。

 私は先日、五反田の某書店にいた。
 五反田にある図書館関係の会社の面接試験を受け、面接をした社長と女性管理職の高飛車で私と全く噛み合わなさそうなその態度に辟易して、とぼとぼ退出してきたところであった(当然というべきか、翌日に不採用の通知が来た。しかし、ああいう態度の会社ならかえって入らない方がましだと思う)。五反田は私が院生だった時に二年間通った街でもある。受験の下見にと初めて五反田へ降りた当時の私は、大崎橋のたもとに堂々と掲げられているソープランドのネオン広告に仰天したものだ。
 ともかく、当時よく立ち読みしていた新刊書店に入り、文庫本のコーナーをみると、版画風の、富士山が火を噴くイラストの本に目が止まった。それが芝豪『宝永・富士大噴火』(光文社文庫、光文社、2001)である。おやっと思い、ペラペラとページをめくると食行の名があるではないか。奥付を見ると2001年11月20日とあり(本の奥付にある日付はしばしば正確ではない。現にこの日は11月12日だった)、まだ刊行されて間もない。普段小説を全く読むことの無い私ではあったが、即座にレジに持っていき買って読むことにした。297ページの小説なら一日あれば読みきれる。
 内容は本書のタイトル通り、宝永四年(1707)に起きた富士山の噴火をテーマにしたものである。かつては藩の家老まで勤めたが妻を亡くし捨て扶持に生きて諸国を放浪する嶺新之丞という浪人を軸に、親友の彼を登用して酒匂川の改修に当たらせる関東郡代・伊奈忠順の苦悩や、夥しい火山灰の被害に喘ぐ富士山東辺の農民たちの困窮を描いている。
 このストーリーでは伊藤伊兵衛、すなわち食行身禄が大きな役割を果たす。彼は仙吉という弟子を従える富士行者の顔をもつ大店の店主として描かれるが、最後にその豪商ぶりを発揮して、伊奈忠順の代わりに駿河代官から13000俵の米を5000両もの大金で買いあげる。  さらに、荒れ狂う酒匂川を鎮めるために仙吉と、新之丞との縁で食行の店に奉公する用沢村名主・伊右衛門の娘お夕と三人で人柱になろうとさえするが結局それは叶わず、後に富士山を鎮めるために富士山で入定する・・・とこのような具合である。すごい行者である。
 しかし、実はこの食行像こそつっこみどころ満載である。要するにこの作者は不勉強で、新田次郎の『怒る富士』を参考にしたのならなぜ『富士に死す』を見てなかったのか(参照した形跡は全く無い)、せめて『富士講の歴史』ぐらい目を通すべきだろうと思った。ざっとおかしいところを列挙すると以下のようになる。

 以上、これだけの間違いを指摘できる。芝はあとがきで「莫大な富を人々に分け与え、"捨て去る"ことを実践したる稀有な人」として評価しているが、実際の食行は、相次ぐ火事と他人の借金の肩代わりとでおそらく相当な貧乏だったはずで、豪商説自体、少なくとも研究者の私としては信じていない。徳川家康や織田信長のような有名な歴史人なら、いくら空想の部分が大きくてもご愛嬌であるが、やはり食行ほどのどマイナーな人物に注目するくらいなら中途半端に書くべきではなかったと思う。
 食行を扱った小説としては、食行の一生を書く新田次郎の『富士に死す』に尽きるだろう。もっとも新田のこれも、書くところは全く伝統的な食行像のままであるが、しかし初出は昭和48年(1973)なのでこの時期としては上出来である。むしろ30年近く経って退行している食行像の方が嘆かわしい。

▼新田次郎による角行系宗教の小説

 新田次郎は自身が富士山頂の測候所に勤務していた経験からか、『富士に死す』以外にも富士講の登場する小説を書いている。新潮社の新田次郎全集では全て第19巻(1976)に収録されている。サブタイトルも「富士に死す・算士秘伝」とあり、『富士に死す』が巻頭を飾っている。しかし、残念なことに文春文庫に収録されている文庫本は復刊されていないようだ。
 新田次郎による富士講に関する小説には以下のものがある。簡単な紹介を付す(実は同じテーマでnifty:fyamap/mes/2/9322に書いたことがある。以下はそれを多少改変したものである)。

 角行系宗教に関係しないので取り上げないが、この他に富士山に関係する時代小説として『仁田四郎忠常異聞』(第19巻所収)がある。

 私が知る限り、角行系宗教を扱った小説はこの程度しかない。この他に泡坂妻夫『弓形の月』(ゆみなりのつき・双葉文庫、双葉社、1996)というミステリー小説に不二道が出てくるけれどこれは名前だけで、性魔術の根拠にされてしまっている程度である。もちろん、実際の不二道はそんなことをしなかったし、むしろ江戸市中の富士講か仏教の立川流と取り違えているような気がする。内容としても富士講の先達が出てくるわけでなし、冒頭を少し読んだだけでつまらなかったので投げ出してしまった。
 富士講や角行系宗教を描く小説がこれからも劇的に増えるとは思えないが、書き手はよくよく調べて臨むべきである。『富士講の歴史』もあることだし(私の研究もあることだし)、30年前の新田次郎を下回る知識では到底評価はできない。マイナーな宗教であるだけに、きちんと書き込んでほしいものだ。
 最後に、富士講や角行系宗教を扱った小説が他にもあったら、ぜひご教示願いたい。
 
(今回に限り敬称略)