『金明水と富士講』、その後

▼『金明水と富士講』

 2001年7月、私は日本風俗史学会の『風俗史学』という雑誌に「金明水と富士講」という論文を掲載させていただいた。金明水とは、富士山頂にある井戸状のものである。富士講や麓の御師たちはこの水に霊的なものを認め珍重していた。ここで私が主張したことに以下のものがある。

 つまり、金明水は井戸としてはニセモノなのではないかというのが私の主張であった。
 井戸とは水理学の力を借りて簡単に言えば、水を通す地層(透水層)の下に粘土層や岩盤などの水を通さない地層(不透水層)のあるところを掘って、不透水層の上を流れる地下水をくみ上げるものである。水を通さない地層がなければ水はどんどん下に流れていってしまうわけで、水をくみ上げることはできない。しかるに富士山はスカスカの溶岩の塊であるから、山頂に降った雨や雪は山頂で留まることなく流れていってしまうだろう、というのが私の推論であった。これを書いたときは単純に富士山(の山頂付近)が単なる溶岩でしか出来ていないとしか考えていなかった。今思うと我ながら実に浅はかである。
 ただし、全くの無根拠というわけではなく、私が富士山の地質について参照したのは、『富士山 富士山総合学術調査報告書』(富士急行、1971?)という資料であった。この文献は富士山に関する地質や気候や生物について詳細に調査し集成している。そして、この資料に報告されている富士山の地質に関する記述は、不透水層の存在を富士山頂付近に予想させるようなことはなかった。この資料に科学的な裏付けを得たからこそ、この論文にあるような主張ができたのである。

▼小林氏のお手紙

 小林謙光氏からコピー入りの封書を郵便で頂いたのは8月下旬である。小林氏は小田原市在住の富士講研究家で、特に足柄地方の富士講を精力的に研究しておられる方である。当然小林氏にも『風俗史学』をさし上げている。この封書はそのことに対する礼状であったが、しかし氏の書簡には以下のようにあった(表記等ママ)。

金名水・銀名水にも興味を持ち、富士山頂で水が湧く理が長い間、理解できませんでした。ところが昭和四十七年に朝日新聞の「富士山の盲点・永久凍土」(樋口敬二氏)の記事を読んで、山頂の稜線部一帯が永久凍土であると知り、金名水・銀名水は夏には永久凍土の上に水が溜まるのではないかという素朴な疑問を抱きました。

 当然のことながら、私は大いに驚愕した。永久凍土の存在など初耳だったからである。同封されていた朝日新聞の記事は昭和47年8月3日付夕刊のもので、筆者の樋口敬二氏は記事を見る限り名古屋大学教授(当時)で氷雪物理学を専門とする研究者である。そこには以下のようにある。

 雪の消えた八月でも、山頂では、地面のすぐ下に氷がある。この事実は・・・一種の涼感を呼ぶのではあるまいか。
 しかし、一方、この事実は、一部にはよく知られていながら、公式に記録されることのなかった珍しい現象という点でも、驚くべき存在である。
(中略)いままでいろいろな富士山の解説書が刊行されているが、そのどれにも、そんな記載はなかったからである。
たとえば、今年の三月、富士急行株式会社は、創立四十五周年を記念して、総合学術調査報告『富士山』を刊行したが、・・・大部のものであるにもかかわらず、永久凍土については全くふれられていない。

 まさに根拠とした文献が手落ちであることを提示された格好となり、私はさらに狼狽した。永久凍土の存在が事実なら、金明水が水理学的な井戸である可能性が生じてくる。永久凍土はその名の通り地中が凍結したまま融けていない地層だから不透水である。氷は凍結した水だから、当然水を通さない。つまり金明水の地下から広い範囲にわたって永久凍土があるとすれば、この不透水の地層が受け皿となって下へ流れ落ちない地下水の流れが可能となり、従って井戸も可能になるというわけだ。さらに検索エンジンGoogleで「富士山 永久凍土」をキーにして検索すると、数多くの結果が表示され、例えば静岡県のインパク静岡パビリオンの説明や、毎日新聞2000年6月11日付の記事、さらに国土交通省中部地方整備局富士砂防工事事務所の富士山直轄砂防30周年記念シンポジウム『富士山の自然と保全』~世界に誇れるFUJI-YAMAを新世紀に伝えるために~でのパネリスト・増沢武弘氏(静岡大学教授)による報告など、現在では地球温暖化による永久凍土の縮小が問題になっていることを知るに至った。
 結局小林氏には感謝と後日の調査を約束する旨、葉書に書いて送ることにした。

▼後日の調査

 小林氏へ調査する旨告げたものの、長らく着手していなかった。失業して時間が空いたのを機に調べてみることにしたが、とはいえ実際に富士山頂で地面を掘るわけでもなく専ら文献で調べるのみである。国立情報学研究所情報検索サービス(NACSIS-IR)などで調べてみると、富士山の永久凍土について研究した藤井理行氏がこのことについて論文を残しており、藤井氏は現在国立極地研究所の教授をなさっていることが判明した。その論文や他に何か文献が無いかと思い、板橋区にある国立極地研究所の図書室をたずねてみることにした。お目当ての論文とは、藤井理行・樋口敬二「富士山の永久凍土」(『雪氷』34-4)である。これは先行して見つけた南坂丈治・岩田幸雄「富士山大沢崩れで発生する土石流と凍土層について」(『新砂防』42-4)に参考文献として挙げられている。極地研究所図書室の職員は、飛び込みの私に親切に応じてくださった。そして目的を話した私に持ってきてくださったものが藤井理行『富士山およびネパール・ヒマラヤにおける山岳永久凍土の研究』(198-?、自筆原稿の電子複写)であった。なおこの文献は、コピーを製本したものであるにもかかわらず、存在が公開されている。そして、このコピーを紐解くうちに、藤井氏が金明水を直接調査している記述があることを発見したのである。現在金明水はコンクリート製の蓋に封じられており、その中を窺うことはできなくなっている。「金明水と富士講」で書いたように、明治時代に金明水・銀明水で細菌調査を行った例はあるものの、それ以後金明水を科学的に言及した話は寡聞にして知らない。そういう意味でもこの報告は貴重である。
 以下、藤井理行『富士山およびネパール・ヒマラヤにおける山岳永久凍土の研究』からまとめると次のようになる。なお、『雪氷』の論文にある調査やデータは全てこの文献の中にある。つまり『雪氷』の論文を増広したものがこの資料である。

 以上よりわかったことは、溶岩は必ずしも透水性ではない(永久凍土も必ずしも不透水ではない)という自らの知識の誤り、しかし金明水の場合は元来透水性の良い永久凍土が不透水となり地形的に水が溜まったものではないかということ、である。確かに金明水の周囲は平坦な低地であり、水が溜まりやすいことは容易に想像し得る。銀明水も地形的には似ている。結果として、私が「金明水と富士講」で述べたような金明水人造設備説は間違いで、水理学的に説明しうる井戸であったことになる。その点、お詫びして訂正したい。
 ただし、最後にあげた「石碑」による年代の推定は支持できない。1559年となれば富士講はおろか角行系宗教すら存在していない。「金明水と富士講」に書いたことであるが、18世紀前半以前に書かれた、見ることができるどの記録にも金明水の存在は現れない。同じく山頂にあって、しかもある時期にしか出現しないコノシロ池は少なくとも17世紀の記録には現れているにもかかわらず(更に単なる「池」という表現のものならば中世から記録がある)、である。
 また、藤井氏のいう「石碑」について、富士山内の石造物を悉皆調査した富士吉田市史編さん委員会編『上吉田の石造物-富士吉田市上吉田地区石造物調査報告書-』(富士吉田市教育委員会、1992)に該当するものを見出しえない。この報告書は立派な体裁とボリュームの割に銘文をあちこちの石造物でごっそり漏らしており、その銘文自体は直接確認するまで信用して用いることはできないが、金明水のような周囲に何もない場所の石造物の存在まで疑うことはないであろう。この報告書を信ずるなら、1970年当時金明水には明治25年(1892)に建てた石碑が石碑が一つあるだけだが(p.293)、これにそのような記述は見出せないし(高さ58cmの小さいものなので調査が落としているとも思えない)、銀明水には明治39年(1916)の戦勝を記念して柵を寄付する旨の石碑、年代不明の石碑、東京日日新聞による大正13年(1924)の石碑があるだけで(p.285f.)、やはり金明水の由来について記した石造物は見当たらない。1559年開鑿を説くという「石碑」の存在は藤井氏の誤認か記憶違いではないかと現時点では考えている。

 実は失業して資料収集している間によい論文を見つけた。
 堀内真「富士山内の信仰世界」(礒貝正義先生喜寿記念論文集刊行会編『甲斐の成立と地方的展開』所収、角川書店、1989)である。富士山に散在する施設や地理上の地点を軸に、それらが信仰と如何にかかわるかを、豊富な図・表を使って論じている。これによると、少なくとも寛政2年(1790)に上賀茂神社の祀官であった賀茂季鷹による紀行『富士乃日記』には「おさんすい」または「ちいさき井」として金明水の記述がある。つまり、19世紀以前、1790年には既に成立していたことが確認できる。私が見る限り、今のところ明確に金明水と確認できる最古の記録であると言い得る(あくまでも大谷の主観によるものだから将来上限が上がることはあり得る)。
 堀内氏が用いた『富士乃日記』は北口本宮に所蔵されている写本だが、甲斐叢書所収のものの他に、最近吉田の御師・菊田式部の手になる写本からの影印及び翻刻が刊行された。これによれば、『富士日記』にはこのようにある。

其所〃も大かた見わたさるれバそこはめぐらで右の方に原のごとき所あるにいさゝか下りてみれば是なんおさんすいといへり ちひさき井なれどいかなる日でりにもかれずとぞうべ ことしの夏だにかれせねばあやしき水也けり 今ニ同じさまなる井あれどそこは水かれて雪いさゝか消のこりたり 思ふに山水と三水とひが心えをし人の堀そへしなるべし
 
池田敏雄『国学者・歌人 賀茂季鷹『冨士日記』の研究』(武蔵野書院、1997)影印p.31f.、翻刻p.98f.。太字は大谷による。

 吉田口から登って取り付きのピークである薬師岳から右へ行き、金明水に降りた時の記述である。引用冒頭の「そこ」とは、釈迦の割石(白山岳にある巨石)などの名所を指す。山頂を一周するお鉢めぐりを勧められ、気が進まずに断ったけれども金明水には興味を引かれたのである。状況としても位置関係は合致する。ともかく、これを読んで驚くべきは枯れているとはいえ、井戸が三つあったということである。周囲の記述からして、銀名水と合わせてもう一つあったということではなく、金明水の場所に井戸の穴が更に二つ開いていたということである。賀茂季鷹は「山水」を「三水」と思い込んだ人によって掘られたのだろうというが、もしかすると、水が出るまで試みたなど別に理由があったのかもしれない。また、金明水は当時「おさんすい」と呼ばれていたこともわかる。「金明水」という呼び名自体、銀明水と対であることを意識された故のものであろう。 ここで以上をまとめるに、金明水は1790年には成立しており、「おさんすい」と呼ばれていたということである。

▼まとめと反省

 「金明水と富士講」について、金明水が水理学的な井戸ではないのではないかという説は私の邪推に終わったが(明るくない、特に理系の分野に関することは十分すぎる準備をしてから論ずるべきであった。それがこの論文の反省点の一つである)、その成立年代については概ね妥当であるとして、そのまま言い続けてよいのではないかと思う。この点については、もう少し詳しく年代を特定できる史料の発見を望みたい。
 最後に、問題点を気づかせてくださり、拙い考察をより真実へと近づかせてくださった小林謙光氏に記して御礼申し上げたい。ありがとうございました。