第二十講 「富士講とその起源」(完全版)

▼経過説明

 「まだ富士講やってる?」と、浅草寺の塩入亮乗氏から突然の電話をいただいたのは2002年3月の初めだった。塩入氏は浅草寺の教化部長という要職にあるが仏教民俗学者という一面をもち、私が学部生の時に彼の仏教民俗学の講義を聴講していたものだ(現在も大正大学非常勤講師)。最後にお会いしたのも数年前ではなかったかというほどに疎遠だった塩入氏の用件は、今度新人物往来社の『歴史読本』で富士山の特集をやることになり富士講で書いてくれといわれているのだが手伝ってほしいということだった。
 塩入氏と私には富士講を挟んだ縁がある。毎年数回、浅草寺は安田生命ホールで浅草寺佛教文化講座という講演会を開いている。この講演会を毎回企画して司会までこなし、各回の講演をまとめて編集しているのが塩入氏である。ある時「富士講で講演をしてもらうには誰がいい?」と塩入氏に相談され平野榮次氏を推したことがある。平野氏には期待通りの講演をしていただいた(第515回)が、この講演以前から平野氏は病床にあり本人による講演録の校正は難しいということで私がそれを依頼された。平野氏は講演から四ヶ月後に亡くなってしまい、その講演録が遺稿となってしまったが、出版は更にその後だったのでこれを見ることはなかった(『浅草寺佛教文化講座』第43集-1999、浅草寺-、p.171)。
 ともかく彼による二度目の依頼を引き受けた私は、さっそくたたき台となる原稿を三日で書き上げた。詳しい経緯は省略するが、塩入氏はその後体調不良ということで、たたき台を校閲して実質的にこの件から手を引き、私と塩入氏に依頼してきた編集プロダクションとの直接交渉になった。面会した編集プロの編集者曰く私の原稿は分量的にも表現的にも商業的に差しさわりがある部分が多すぎるそうで、議論した挙句に彼が提示した再校閲原稿は当初の1/3に圧縮され、しかも(内容こそ変わっていないものの)私の言い回しの大部分が改変されていた。その無残なまでに改変された校閲原稿を見て私は「もう好きにしてくれ」という気分になった。冗長であろうと何だろうと自分の文章をいじられることを良しとしないのは当然であるが、この原稿をそれを通り越して私が書いたものとはいえない代物になっていた。しかたないので、この原稿はもはや私の書いたものとは言えないのでお好きにどうぞ、その代わりに自分のホームページで原稿の完全版を出しますと言ったらそれは構わないということだった。結局この再校閲原稿は『図説富士山百科』(別冊歴史読本14)の一部として掲載されたのである。
 そして、これから下に掲げるものはそのフルバージョンの原稿である。ただし、塩入氏が初めに校閲する前の原稿は上書きによって修正されたため残っておらず、編集者による校閲前の時点の原稿である。また、ここに掲出するにあたって修正した箇所もあることをおことわりしておく。文中の約物は小見出しに使われることを意識して元からあったものである。原文はMS-Wordで書いたためルビがついていたが、HTMLでルビをつけると環境によってはかえって見にくくなるので全てはずした。
 また、掲載された原稿には角行系宗教の系統図というものがあった(『図説富士山百科』p.47)。これは私がMS-Wardで作成したものだが、実はこの後にもっと作りこんでより正確な模式図として提出した。しかし、編集者は初めに提出した方が簡潔であることと後のもので現れる団体名が原稿本文になく混乱をきたしかねないとの理由でこれを却下したのでそれも示すことにしよう。ただし、Wordのdocファイルをそのまま提示するわけにもいかないので、アドビ社のAcrobat形式によるpdfファイルとする。原図はカラーだったが、カラーのpdfファイルは激しく重くなるのでモノクロとした。解像度が200dpiのもの(85KB)と400dpiのもの(297KB)と二つを置いておくので、環境に合わせたものをダウンロードしていただきたい。精細度は当然400dpiの方が高く強拡大しても閲覧に耐えられるが、ダイアルアップ環境ではかなり苦しいのではないかと思われる。その点、200dpiは100%を越える拡大では見られたものではないものの、jpg画像一枚程度の重さしかない。
 角行系宗教の系統図・完全版(400dpi、297KB)
 角行系宗教の系統図・完全版(200dpi、85KB)

▼富士講とその起源(完全版)

◆はじめに

 富士講を一言で定義するなら、「近世、関東地方を中心として大いに流行した、富士山を信仰する集団の一派」であるといえる。
富士講は、角行とよばれる人物を始祖と崇めその教えを継ぐ、と自称しまた通説としてもそのように言われてきた(系図参照)。富士講で言い継ぐ伝承は、講によって細かい差異があるけれども概して以下のようになる。
「富士講を始めたのは角行という人穴で修行した行者で、後に食行身禄(1671-1733)という五代目(伝承によっては六代目)の弟子が中興の『元祖』として活躍した」。
 この説が専ら富士講の説明として行われ、近世の富士講から現代の研究者に至るまでがこの伝承を支持していることは、江湖にあふれる富士講の解説を見れば了解いただけることと思う。ただし、厳密にいえばこの説明は正しくない。以下に彼らの実態を述べつつ富士講について考えてみたい。

◆富士講の実態

 富士講を構成する人たちは、上から下までほぼ例外なく、俗人として別に本業を持つ人たちである。その講を代表するのは先達と呼ばれ (講が大きければ副先達が下に置かれたり、先達たちの上位に大先達が置かれたりした)、講中の祈祷を主導し何度何十度と富士山に登ることで人望と験力を得た。危険な富士登山のリーダーでもあるので宗教的な才能もさることながら統率力も求められたであろう。しかし、そんな彼らですら祈祷を生活の手段とすることは禁じられていたとされ、建前としては職業的な宗教者としての富士講先達は一般的にあり得ないことになっている。富士講の人たちは、平素は商人や職人あるいは農民として(ごくまれに武士)一般の人たちと変わらない生活を送っていた。例えば最初に富士塚を造成した大先達・高田藤四郎(?-1782)は植木職人を生業とする。
 彼らは月に数度定めた日に集まってお伝えと呼ばれる折本様の教典を唱和するのが日常だったと思われる。これを月拝みなどという。その際にお焚上げという加持祈祷のようなことを行っていたらしい。現在に伝わる方法では、まず拝み箪笥と呼ばれる小さい箱に炉や道具を入れて当番の家(あるいは先達など講の中心人物の家)に持ち運ぶ。そこでお身抜と呼ばれる独特の書式で書かれた文字の羅列からなる掛軸を掛けて本尊とし、拝み箪笥をお身抜の足元に飾って即席の祭壇と為す。そして、線香の束を焚木代わりとして炉の中に富士山のように積み重ね、唱和の中に点火しつつ祈りをささげたり神意を占う。線香の富士山が全て燃え尽き、法会が終われば、直会と呼ばれるささやかな飲み食いをして終わる。祈祷の所要時間は現存する富士講においては一時間弱である。あるいはこの場で無尽などをしていた講もあるが、「信仰で生計を立ててはならない」とされている以上、法会が賭場や富くじの抽選会場となることはなかったと思う。
 このようなことをしながら一年を過ごし、夏に富士山が山開きを迎えると、何人かを選んで富士山へ登山する。選抜はくじや順番で決められ、一度に行く人数は講の規模に応じて数人から数十人とまちまちである。地方、特に農村の講においてはある年齢に達した男子を村落共同体の一員として迎えるための通過儀礼として登山させることもあった。富士山に行くことのできない人たちは富士塚を登って代償とする場合もあったようだ。富士塚を有する富士講では、山開きの日のためにこの塚を清めて当日に祭礼を行う。あるいは他の富士塚をいくつか(七つであることが多いようだ)巡り、お伝えを唱えて山開きの一日を過ごす。
 ただし、伝統的に女神をご神体とするためか、富士山では基本的に女性の登山は嫌われた。特に富士山周辺の農村では、富士山に女性が登ると天候不順や耕作不良が起きると信じられていた。そのため、女性は二合目の御室浅間かよくて五合目までしか登ることができず、彼女たちが山頂まで登ることは無かったといわれる。だが、新田次郎の小説『女人禁制』よろしく、人の目を盗むような形で登頂していた可能性まで否定することはできない。
 富士講自体は信仰の集団だが、担い手の中には物見遊山をするために参加する人や講そのものを社交の場として通っていた人たちも多かったのではないかと思う。信仰心のみを理由として富士講の隆盛を説明するのは難く、そのような意味で富士講は地元にある富士登山の代理店という側面もあったといえる。

◆富士塚

 富士講のあった各地では富士塚という、富士山を模した築山が造られた。主として地元の神社に築かれたが、寺院・山中・個人の宅地内などにも見られる。富士山を模した塚そのものは中世から造られているが何故か信州に多く、城郭の遺跡に隣接して発見されることから、特に武士による富士信仰ではないかと考えられる。しかし、ここでは富士講によるもののみを「富士塚」と呼んで論じていきたい。
 最も古い富士塚は安永八年(1779)、高田水稲荷(東京都新宿区)に落成した高田富士と呼ばれるものである。今は早稲田大学の拡張によって移転したため原型を留めていない。富士塚の形態には地域性が色濃く出ている。黒ボクと呼ばれる富士山周辺で採れる黒い石を貼りつけ、山頂の浅間神社を始めとする富士山にある宗教施設を塚上のミニチュアとして再現するのが江戸市中にある富士塚の一般的なスタイルである、しかし、江戸を出ると土だけで構成したり自然の低山そのものを富士山に見立てたりと地域性が大きく現れる。特に栃木や群馬、房総半島など江戸から離れた地にある富士塚は、都内で見るものと大きくかけ離れたイメージを見るものに抱かせるであろう。各地における富士塚の様式や地域性に対する研究はまだまだ未熟である。地域性の強い富士塚は、江戸市中の富士塚を基準に考えられてきた富士塚の定義そのものをしばしば揺るがせ、何を以て富士塚と言うべきか未だに議論が絶えない。

◆富士講の富士登山

 彼らは自らが富士山に行きやすいルートを辿って富士山に登る。大宮と呼ばれる富士山本宮(静岡県富士宮市)から村山を経由して登るルートを除く各登山口には、御師と呼ばれる人たちが宿坊を構えている。具体的には河口(山梨県河口湖町)や吉田(山梨県富士吉田市)、須走(静岡県小山町)の各登山口に御師がいて勢力を競っていたが、富士講の隆盛にしたがって吉田の御師が一人栄えるようになった。推移はあるものの、近世から近代にかけて吉田の御師は約九十軒から八十軒程度が存在していた。ただし、現在は富士講の衰退によって数軒のみであるという。
 御師たちは御師団と呼ばれる組合を組織し、地元の浅間神社に仕える神職を持ち回りで選出する。身分的には武士と農民を合わせた性格を持ったインテリであり、吉田では例えば田辺和泉や持山播磨など国名をつけた名前を代々用いることが多い。御師たちは富士講に限らず富士登山にくる人たちを宿坊と化した自宅に泊め、彼らが登山する際に必要な修祓などの宗教的・事務的手続きを引き受け、更には荷物持ちや案内を勤める強力を手配するなどの世話をする。登山者を清めて送り出すために、宿坊には神殿や水垢離の場が設けられている。特に富士講の先達に対しては、富士講の教義や行名と呼ばれる行者としての名前などを金銭などと引き換えに許可していた。富士講において、宗教上の権威とされるものはその講代々の先輩だけではなく、吉田の御師たちもそのように見られている。なぜ角行や食行の教統にすら直接関係しない彼らがそのようなことをするようになったのか今後も研究の余地があるが、とにかく富士講で本尊として用いられるお身抜や教典の類を発行し、行名を与えるのは御師たちであるということになっている。結果、富士講は各自特定の御師たちの顧客となる。御師たちは、登山シーズンが過ぎると自らが調製した薬品(彼らは薬草を自家栽培していた)や神札などを持参して、顧客たる各地の富士講を巡回してまわる。これを「檀廻り」などという。檀家と目される各地の富士講は御師たちの間で株のように扱われ、何軒何十軒という単位で売買されることもあった。
 御師を利用して登山した富士講の一行は、下山後大宮や人穴(静岡県富士宮市)・白糸の滝、あるいは道了尊(神奈川県南足柄市)や大山不動(神奈川県伊勢原市)に詣でたり、箱根で遊んだりして帰途につく。彼らにとって信仰の旅は行楽・遊山の旅でもある。富士講の発祥は江戸であるが、各地の富士講の道程にはそれぞれの特色があり、例えば房総半島の講は船によって江戸近郊を経由せずに富士山へ向かったはずである。富士講が存在していたのは現在の地理区分で言うと、東京・埼玉・神奈川・千葉・群馬・栃木・茨城・山梨の各県である。静岡県は富士山のお膝元であるが盛んではなく、伊豆地方にはあったかもしれないが、駿東郡より西即ち旧駿河国の地域では全く確認されていない。しかし一歩東の相模国に入れば小田原や足柄地方においてまた盛んである。不思議なことではあるが、おそらく富士講の成立に駿河側の富士信仰と対立する吉田の御師たちが深く関わっていることが大きな要因ではないかと思われる。

◆富士講と他の宗教

 大部分の富士講の人たちにとって、仏教や神道といった既存の宗教は同時に信仰する対象である。富士講の人たちが聖地とする人穴には歴代の行者が葬られているが、むしろ富士講全体からすればそこまでする人はよほどの熱意ある人に限られ、一般的な講員は普通に菩提寺となる寺院に葬られていたものと思われる。彼らは地元にまします神社の氏子でもあり、現代見られる衰退した富士講の多くが氏子の一組織としてのみ存続していることも少なくない。しかし、神道と富士講は決して地続きではなく、富士講は神道とは明らかに異なる世界観や神観念を有する独自の宗教である。
 また、伊勢太々講や大山講など、特定の宗教的な拠点に参拝することを主目的とする代参講とも明確に一線を画している。富士講の主たる目的は富士山に登ることではなく、彼らが仙元大菩薩と崇める富士山の神(それは同時に世界の統治者でもある)に対する信仰を通して現世の利益を得ることにある。だからこそ月拝みなどの日常的な信仰が盛んに行われたのである。
富士講の人たちが描く彼らなりの聖なる世界は、既存の神仏の存在を利用して再構成されたものである。富士講の内部では『小泉文六郎聞書』を始めとして、独自の世界観や教義を説く文献が造られた。それは多分に著者独自の世界観や知識が反映されており、彼らが祖と崇める食行身禄や吉田の御師たちが説く世界観と混在する場合もしばしばあった。そういう意味では、富士講の人たちが考える世界観は同床異夢と言えるほどに微妙なズレを相互に持ち、統一的な教団を終に結成することの無かった富士講は教義もまた統一的では無かった。富士講を担う人たちは庶民であるが、彼らの仏教などに対する知識は現代のわれわれが想像する以上に豊富であり、神道と仏教の知識にある程度以上通じていなければ彼らの文献を読むことは難しい。

◆富士講の起源

 現代にいたるまでの富士講の歴史を概観すると、もともと新宗教のような形で始まった特定の流れを引く富士信仰のサークルが、地域共同体・地域の風土・地域の民俗に同化しようとした歴史でもある。  一般的に宗教学で言われる「新宗教」というジャンルは、早くても宝暦六年(1756)の一尊如来きのの誕生あたりから語られる。きのは如来教(現・宗教法人如来教と同、一尊教団)の教祖である。が、自らを(サークルの)五代目と名乗る食行身禄(1671-1733)でさえ、きのの誕生に二十年以上も先立つし、ましてやその始祖である角行(書行)は17世紀前半の人である。しかし、角行たちの遺物も明らかに従来の宗教が残してきたものと異なるものであり、ユニークである。角行を新宗教の先駆者と考えるべきかどうかは今後も考察する必要があるだろう。 冒頭で述べたように、「富士講を始めたのは角行という人穴で修行した行者で、後に食行身禄という五代目(伝承によっては六代目)の弟子が中興の元祖として活躍した」と一般には言われているが、この説明は歴史的事実を考えると無理がある。富士講の研究家として名高かった岩科小一郎氏によれば、江戸市中の町触に「富士講」という表現が初めて現れるのは寛政七年(1795)の町触においてであるとされている。寛政といえば既に江戸市中に富士講が蔓延している時期である。富士講に対する触の嚆矢は寛政を五十年も遡る寛保二年(1742)の町触とされている。これは、

近頃町方にて富士加持水と名付、病人え毎日水をあたへ、服薬仕候得は其薬を止めさせ、加持水一通りに致させ、日々水斗給へさせ、病気快気仕候得ば、富士門弟と申事にすゝめ込候由、快気仕候者は稀にて、怪我之有る者多く御座候由風聞仕り候(原漢文)

という町名主たちからの上申を受けたもので、町奉行所が触として出した回答は

不埒の事に候間、早々相止申すべく候、若し相背は、吟味の上急度申付くべく候(原漢文)

 というものであった。つまり「富士の加持水」と銘打って病人に(ある種の)水のみを勧め以て治療と為す人たちがいて、彼らはその効験あった人に「富士門弟」という団体(?)に入信を勧めていた。しかも「吟味之上急度可申付」として処罰しなければならないほど、彼らの活動は評判が悪く被害が多発していたということである。彼らのしていることは確かに現代のわれわれから見ても甚だ怪しいものであるが、実はこの「富士門弟」こそ富士講そのものではないかと考えられる。富士講において知られている呪術的治療の一つにに「オフセギ」と呼ばれるものがある。それは「参」などという彼らの神的シンボルとなる文字などを刷り込んだ紙片を水に浮かべて飲むというものである。この種の呪術的治療は例えば東京巣鴨のとげ抜き地蔵の縁起などが有名であるが、少なくとも富士講でもこの類を嫌うことはしなかった。方法はどうあれ、水を霊性の媒介として治療に用いるという発想は富士講の歴史において珍しいことではない。ともあれ、富士講と思われる人たちの活動は、現在のところこの町触より遡るものを見出し得ない。もっとも、伝承としては先の高田富士を建てた高田藤四郎という先達が師とする食行の死後元文元年(1736)に身禄同行というサークルを起こしたとされる(『富士講唱文独見秘書』)が、彼が食行の弟子だったという証拠は全く発見されておらず、そしてこの同行成立も伝承以上の具体性を見出されない。
 今の「富士門弟」が富士講そのものを指しているのなら、彼らは18世紀半ばになっても「富士講」という表現を用いていなかったのではないかと言い得る。まして、それ以前に亡くなり中興と称えられる食行の著作にも、「富士講」の語が現れることが皆無なのは言うまでもない。食行は享保十四年(1729)に成立したその主著『一字不説お開みろくの御世の訳お書置申候』(通称『一字不説の巻』)で自らを「富士の願人」と呼び、あるいは「月行同行」と呼ぶ。月行とは食行の師にして角行から四代目にあたる。富士講においては食行を敬うこと盛んであるが、しかし食行すらも「富士講」という言葉を知らず、更に言うなら自らの宗教が冒頭から述べてきたような実態を持つ集団であったとは全く思っていない。ここにわれわれが認識する「富士講」と角行から食行に至る教統の間に決定的な断裂が横たわっていることを確認できる。つまり、角行も食行も、彼らが知らないうちに後世の人たちによって「富士講」というものを祖にされてしまっている、ということである。では、角行たちが「富士講」でないのなら、彼らが拠って立つ宗教とは何なのか?

◆「角行系宗教」

 結論を先に言ってしまえば、それは「名前は明確でないが、明らかに既存の宗教とは異なる実質を持ち、角行によるユニークな信仰・あり方・表現に依存した独自の富士信仰」である。残念なことに角行自身が自らの宗教を何と呼んでいたかは未だ明らかではない。角行以来の正統に継承しているとされる人たちが現在も人穴を拠点としているが、宗教法人としての登記上は「富士御法」とあるという。また彼らに対して「法家」(または御法家)という伝統的な呼び方があるのだが、少なくとも角行がこの名称を使っていたという証拠は今のところ全く無い。あくまで私見ではあるが、そのような謂いを用いるようになったのは、彼らが富士講の隆盛を意識し始めた頃からではないかと考えている。
 ここで、われわれは角行を祖とする宗教全体に対して「角行系宗教」という呼び名を与えたい。角行系宗教は富士講と同一ではない。富士御法の存在が示すように、角行を祖とする宗教は富士講だけではない。むしろ富士講は角行系宗教の中でも傍流のまた傍流であるといえる。たまたま吉田と江戸の様々な立場による様々な思惑が噛み合って江戸市中で流行し、それが江戸近郊へ輸出されていったものに過ぎないとわれわれは考えている。
 角行について、知られるところは多くない。というのも、角行の伝記である『お大行の巻』に元文年間を遡る写本はないといわれ、脚色の甚だしい物語と見ざるを得ない。また、人穴の富士御法は彼の自筆を多く有していると言われているが、それらはある事情があって全く公開されていない。角行について確実にいえることは、17世紀前半に存命した実在の人物であること、人穴を拠点として独自の富士信仰を実践していたこと、そして頗るユニークな言語感覚を有していたらしく、彼が「見た」聖なる世界を文字(その中には自分で作った文字も含まれる)や富士山の輪郭を用いた独特の様式で表現していたこと、などである。最後の「文字による聖なる世界の表現」は富士講のお身抜へとつながっていく。
 ともあれ、角行を祖と敬い、継承とする人たち全てが角行系宗教であるといえる。具体的には、富士御法や月行の系統、富士講、富士講から派生した教派神道、そしてこれらの間を自由に動く多分に未知なる角行系宗教の実践者たち(月行のように法家の正統から漏れ、系統的に遠戚にあたる富士講に協力する人たちも少なからずいたらしい。例えば最近では星行という行者の動向が注目されつつある)、などが含まれる。

◆傍流から富士講へ

 角行から四代目にあたる月行(?-1717)はその正統に選ばれなかった傍流の人である。彼は角行から継ぐ教えの他に独特の世界観を有していたらしい。推測ではあるが、この独自の世界観故に正統を継ぐことができなかったと見ることも可能である。この世界観を継承しさらに醸成させたのが食行である。しかし、月行の正統な継承者は別に存在する。一説には実子の惣兵衛であるといわれるが、その流れを汲む近世後期に在世した吉田の御師・菊田広道によれば日行という人物であるとされる(同じ日行でも日行青山を名乗る高田藤四郎とは別人で、本名を長日作兵衛といったらしい)。彼らは月行の提示した世界観を踏襲せずに角行本来の流れに戻そうとしていたらしいといわれるが、その教義的な特色などは全くわかっていない。あえて言うなら少なくとも菊田広道の代までには、既に大多数を占めていた(彼らにすれば傍流にあたる食行を「元祖」と担ぐ)富士講と大差ないものになってしまっていたのではないかと考えられる。月行の正統とされる系譜は菊田広道の弟子である誓行が天保三年(一八三二)に断食で自殺して以来途絶したらしい。ただし、彼ら月行系正統の名が一般的な富士講の文書に現れる場合があることから推測するに、月行系傍流の或るものは途絶したり、或るものは食行を崇める富士講に合流したのではないかと思われる。 ともあれ、食行は角行系宗教全体からみれば傍流の更に傍流であるといえる。食行の世界観または時代観として集約できる彼の思想をやや乱暴に要約すると「仙元大菩薩という神が元禄元年を以て永遠に世界を統治する。それまで世界を支配していた神道の神々はみな失脚する。統治の方法は俗世の為政者を操作することで行われる」というものである。そして超自然的な能力を得た月行以来の門下によって統治の補助が行われるとしたのであるが、おそらくその発想を現実のものとするために、食行は富士山中において断食して自殺する。江湖においては世直しのために食行は自殺したとされるのであるが、彼の一連の著作によって得られる自殺の理由は、決してそのようなものではない。  食行には厳密な意味での弟子は最後までいなかったと考えられる。食行自身が超自然的な存在になるために肉体を捨てたと考えれば、彼はまだ聖なる世界で神の使いとして生きているのであって、弟子を設ける必要を認めなかったのではないかとわれわれは考えている。しかし、食行の死に方は多分にセンセーショナルな要素があったと見え、これを利用しようと考える人たちが現れた。彼らこそが富士講の真の創造者だといえる。彼らの全体像は明確でないが、少なくとも食行の死を見取った田辺十郎右衛門という吉田の水売りと、小泉文六郎というたびたび焼け出される食行の一家を居候させていた江戸の武士(?)が含まれていたことは間違いない。事実、この二人によって為された著作はその後の富士講の思想に大きな影響を与えた。それが死に行く食行の口述筆記に仮託される『三十一日の巻』や前述の『小泉文六郎聞書』である。そして、後に田辺十郎右衛門は御師となり、小泉文六郎は先達となって、自らを富士講隆盛と一助としたのである。  最後に、新興の富士講と角行以来の法家系、または月行の正統から派生した人たちの関係について考えてみたい。江戸時代より、法家系を「村上派」・富士講を「身禄派」と呼んで、没落する村上派と隆盛する身禄派という対比が俗に行われてきた。しかし現代のわれわれはそのような単純かつ二極的なとらえ方をすべきではないと考えている。人穴を江戸時代から管理していた人穴村(現・静岡県富士宮市)名主の赤池家に蔵されている古文書は法家系のもので占められているが、その中に(通説では)敵対しているはずの食行や富士講独自の思想や用語が見受けられるものが多々ある。また、前にも述べたように月行系正統と目される菊田広道の思想は、彼の手になるいわゆる『菊田日記』を見る限り、一般的な富士講のそれと大差ないように見える。つまり角行系宗教の内部で様々に分派されてきたものの、富士講の隆盛した時代においてはその思想的な違いがほとんど無くなっていたのではないかと考えられる。角行系宗教そのものが主として関東と富士山周辺を出ない狭い地域での活動ということもあり、系統こそ違えども思想的な交流が相互に強く行われた結果どれも似たようなものになっていったのではないだろうか。ただし、教派神道の三派においては、富士講に対してもお互いの教派に対してもそうした関係を見出すことは難しい。彼らが含有する角行系宗教的な要素には、その元になった思想性(例えば実行教なら不二道)を強く踏襲しようとする傾向があり、ややもすれば一般的な富士講の思想性が侵入することを拒否しているかのようにもみえる。

◆おわりに

 以上、富士講の実態と彼らの起源に関して述べてみた。明治になると富士講はその一部が扶桑教、実行教、丸山教という形で神道化していく。富士塚といい、御師たちとのつながりといい、もともと神社神道との親和性は強かったので比較的容易に教派神道へ変容していった。教派神道と化した彼らはもはや富士講ではなかったが、一方で新奇な信仰集団として始まった富士講自体が民俗の一部として社会共同体と同化していった。今日では富士講を見ることはほとんどできないが、のどかな信仰習俗となった富士講は間違いなく近世・近代を通じて多くの人々を富士山に向かわせたのである。
 この稿は大谷が骨子を書き、塩入亮乗氏が校閲することによって作られた。塩入氏の鋭敏な校閲に感謝申し上げたい。筆者の一人、大谷はインターネット上で「富士講アーカイブ」http://homepage2.nifty.com/kakugyou/index.htmlというウェブページを主宰している。疑問などがある読者はここの掲示板で質問されるか、大谷宛てにメールをいただければ幸いである。