第二十一講 富士講の映像資料

▼富士講を映像で見よう

 富士講の実態を知るにはどのような手段があるだろうか。現存の富士講を直接見に行くのが手っ取り早いが、ほとんど滅びてしまった現在となっては、活動している講を探し出すだけで一苦労である。あるいは活動していても、昔ながらの内容を保持しているところは更に少ない。二次的に、富士講内外の文献や金石文から想像力を働かせて描き出すのがもっともオーソドックスな方法であるが、あくまで想像に過ぎず、ナマの富士講を体感する気分には程遠い。これに対して映像資料なら、撮影当時の富士講をモニタに描き出し、文献や金石文を読むだけでは得られない臨場感を提供してくれる。
 富士講を一年通して追うには多大な労力が必要である。しかも年毎に状況が変わるので、一年追っただけではなかなか全てを把握しきれない。例えば富士登山にしても、その講が毎年晴天で無事登山できるとは限らない。先達も高齢の人が多ければ、ある年は元気に登山しても、次の年は入院していて登山に行けなかったということもある。しかし、映像資料にそういったムラは少ない。一年以上かかってやっと見尽くすものを、わずかな時間で把握できるのは映像資料の大きな利点である。ただ、反面それ故に、その講の一般化された様子しか見ることができないので、それは短所となり得ることがある。
 撮影した富士講を見ることができるのは、大抵各地の自治体がその文化財的価値から撮影した資料による。一部テレビ放映を目的として収録されたものもある。これらはその映像を所有するところに行けば大抵は閲覧することが出来る。ただし、図書と違って複製や貸出は難しい。所有者が備えている閲覧用の設備を通じて見ることになり、そこまで出向く必要がある。それでも、動きのある富士講を自分の目で見ることができるのだから、交通費をかける甲斐はそれなりにある。
 以下、富士講の映像資料について、その一々をリストにしたいと思う。ここにあるものは全て大谷が一度は見ているものである。地域的に、また取り上げられている講に偏りがある感は否めず、まだまだ各地に同様の映像記録があると思う。また、新しく知ったものは順次追加していきたい。ここにないものをご存知の方はぜひ大谷までご一報いただきたい

▼映像資料リスト

凡例

タイトルシリーズタイトル制作所蔵日時長さ
▲概要・備考

制作者の名前はクレジットから。所蔵者は閲覧可能の場所を示す。Webpageがあればリンクで示した。日時は収録や初放送のもので形式は統一されていない。「講」は取り上げられている講の名前。各カテゴリー内部の配列は順不同。

テレビ放送

富士山とお富士さん新日本紀行(総合)NHKNHK放送博物館1980/07/23放映30分丸藤宮元講社

▲庚申御縁年と山開きを軸に構成。宮元講社に取材しているが、あまり重点的ではなく、富士山側も描かれる。まだ井田清重先達も若く、精密機器の工場を経営していた頃の取材。井田先達の息子である弘氏に焦点を当てていて、宮元講社に取材したものの中では異色。高齢者が多い富士講内での若い世代、または富士講に関わる親子二代を描くという意図があったものと思われ、ラストも妻の出産をひかえた弘氏が七富士参りでその無事を祈るシーンで終わる。

霊峰富士に魅せられて ~ある富士講の夏~ふるさとの伝承(教育)NHK甲府放送局NHK放送博物館1995/11/19放映40分丸藤宮元講社

▲新日本紀行と違い、宮元講社を重点的に取り上げたもの。新日本紀行の頃とこの放送の頃との宮元講社の環境を比較してみると面白い。月拝み、七富士参り、富士登山、火祭りと一通りの活動がわかるようになっている。扶桑教の秘儀である天拝式も収録されている。字幕が親切。

神さまがいっぱい 神奈川県秦野の信仰ふるさとの伝承(教育)NHK横浜放送局NHK放送博物館1996/05/19放映40分不明。秦野市東田原の講

▲特に講の名前があるのではなく単に富士講とされているらしい。扶桑教の影響を強く受けているらしく、月並みにかける軸も扶桑教の「大祖参神」だったし、何より筒粥神事の結果を書き込む紙に「扶桑教」とあった。また行衣を着ずに和服を着る。筒粥神事、講事、大般若、お盆、百八松明と彼らが主体になって地域社会の宗教的行事を行うところに、例えば宮元講社のような一般的・都市的な富士講と違うあり方を見ることができる。大般若の様子が面白い。丘の上にある浅間神社の、石祠と石仏が並ぶ前で、僧侶と富士講が同時に大般若転読と祝詞奏上を始めるのである。カメラはその光景を長回しに撮影している。彼らについての詳細は大谷忠雄著・神奈川県教育庁編『神奈川の富士講』(神奈川県教育委員会、1974)p.222ff.を参照。

東京都

飯塚の富士講博物館ビデオライブラリー13、葛飾区伝統行事毎日映画社葛飾区郷土と天文の博物館1992年記録20分丸嘉講?

▲葛飾区飯塚にある富士神社を拠点とする富士講を記録したもの。丸嘉講のはずだが、そのようには名乗らず単に富士講と呼んでいるらしい。どうやら一旦中断しているようなので、伝統が途切れてしまっているのだろう。ビデオはまず、富士信仰や富士講の由来を説明し、富士神社とその塚について解説。ツキナミの様子と区内の富士塚を紹介した後、6/30の宵宮、翌日の山開き、そして七浅間参りの様子を収録する。メインは七浅間参りで、6か所の浅間神社を巡った後、最後に飯塚の富士塚へ詣でて終わる。なお、博物館には専用のブースがなく、受付で聞いてみたら奥から出してきてくれた。それをロビーにあるテレビデオ(葛飾区の広報ビデオが積んである)で見た。画質があまりよくないけれども、確か同じ内容の16ミリフィルムがあったはずで、そこからのダビングではないかと思う。貸出しも可。

富士開山式 高木某撮影新宿歴史博物館1930年撮影4分丸谷十七夜講

▲無声のモノクロ映画。時間はわずか4分弱。ビデオにダビングされていて、閲覧室のテレビデオで見た。タイトル画面には「富士開山式 於大久保鬼王神社境内 昭和五年六月拾五日 撮影者高木 東京大久保十七夜講」とある。講のメンバーが私的に撮影したものだろう。新宿区歌舞伎町にある鬼王神社の富士塚が落成された様子を収録する。まず大変にぎわう町内を富士講中が行進する。混雑する境内、塚の前で神事が行われた後、講徒たち(数珠を首にかけた白い着流し様のものを着る)が順次塚に登っていく。以後子供や参拝客が登り、講徒たちはお神酒を受け、塚にある石碑の一々や神楽殿での舞(よくはわからないが田楽の一種か)を次々と写して終わる。塚は6-7メートルくらいある鋭角的なものだったが、新宿区立新宿歴史博物館編『新宿区の民俗』3(新宿区立新宿歴史博物館、1993)p.248によれば昭和24年(1949)に道路拡張のために取り壊されたという。今では残骸のみが残っている。丸谷十七夜講については不明だが、これを見る限りでは相当数の講員がいたように思え、開山式も大変な盛況だったと見える。なお、閲覧室に入って見るだけなら無料。

武蔵野の富士講 ―丸嘉講武州田無組中里講社―映像ライブラリー9民族文化映像研究所制作、江戸東京博物館企画・制作・監修江戸東京博物館1989年6月-1990年2月撮影、1992年制作45分丸嘉講武州田無組中里講社

▲6/1、清瀬にある中里富士でのお山開きから始められる。塚を清掃してお神酒を一杯飲む。富士塚を概説した後、丸嘉講の由来について説明する。ツキヨミという(読講ともいうらしい)月並み行事を写す。取材は中里講社が主体だが、大きな行事には同じ田無組の下里、保谷、門前の各講社も参加している。彼らは10年に一度、北口本宮に太々神楽を奉納しており、平成元年の奉納の様子を写す。どうやら最近のうち、太々神楽を奉納しているのはここだけになってしまっているらしい。6/30、記念する額を北口本宮でお祓いした後、定宿の上文字に奉納する。ついで開山前夜祭に出席する。7/6、奉納した神楽を見に北口本宮に参り、太々神楽を見物。後玉串を奉奠し、直会する。7/24、島崎正治大先達(田無組各講の先達のリーダーなので大先達・下里講社か?)以下、ゴゼンサマと呼ぶお身抜を持ち富士登山する。山頂でゴゼンサマを広げで拝みをする。8/26、吉田の火祭りに行き、9/1に中里富士で「火の花祭」という行事を行う。これは塚を絵燈籠や108本のろうそくを飾り、頂きで拝みをする。その後、塚の前に藁を数メートル積んで作る松明に火をつけ(オタキアゲと呼ぶ)、燃える松明を囲む参拝者に先達が特製の大幣束でお祓いする。ろうそくの燃えさしは安産守となるという。冬至、地元の集会所で星祭が行われる。これは即席の祭壇の前に、焙烙のナベを置き、線香を富士山の形に盛ってオタキアゲをする。先立って特製の御札が講の手で作られる。最後は12/30、年末を迎え、塚を飾りつけするところで一巻の終わりとする。内容的には大変見ごたえのあるビデオといえるが、途中画面が荒れる瞬間が何度かある。
 江戸東京博物館所蔵の三本を閲覧する時に共通して言えるのは、閲覧の自由度がまるで無いこと。確かに画質は大変よく、ブースでゆったり見れる(しかも映像ライブラリーに入るだけなら無料)。しかし、巻戻し早送り一時停止などが一切出来ないため、繰りかえし見たい場合にはその都度請求して(一回に一本のみ)最初から見直さなければならない。じっくり見たい時には大変ストレスがたまる、融通の利かない仕組みといえる。なんとかならないものか。

富士信仰と富士塚 ―丸藤宮元講社―映像ライブラリー10民族文化映像研究所制作、江戸東京博物館企画・制作・監修江戸東京博物館1989年6月-1990年8月を中心に撮影、1992年制作44分丸藤宮元講社

▲「1989年6月-1990年8月を中心に撮影した」というテロップから、拝みや富士登山を複数撮影して良いテイクを採用しているのかもしれない。丸藤宮元講社の紹介にとどまらず、富士講の成立を角行から説こうとする概括的かつ野心的な作品。ただし、食行が男女平等を説いたとか世直しのために入定したという、戦後民主主義的なステレオタイプの説明を織り込んでくるのには少々幻滅する。まず、富士塚を概説し、宮元講社に話を切り替え月拝みを示す。角行・食行・日行青山と富士講の歴史を追い、再び宮元講社に話を戻す。このとき、大国屋所蔵の『一字不説の巻』の奥付が短い間だが写される。江戸博のビデオが一時停止できないことをこの時ほど悔やんだことはない。文献屋には大変貴重なカットである。井田先達による6/1のムシヨケのマジナイ、入梅のアツサヨケを紹介し、6/30の開山前夜祭に出席する井田先達を追う。7/1の山開きを手短に紹介する。山開きにじっくり時間をかけないのは、登山に構成の重点を置いたからだろう。8/2のタチオガミ(富士登山出発前の拝み。参加者の持ち物をオタキアゲの火にかざして安全を祈る)を経て、8/4の登山へ至る。北口本宮に参拝した後元祖室に宿泊し、翌8/5にご来光を拝んで山頂を目指す(天拝式には触れず)。山頂でセンゲンサマと呼ぶコノハナサクヤヒメ像の厨子をあけて拝みをする。お鉢めぐりをして下山、御師の大国屋で下山祝い。8/5、帰宅後のお礼拝み。8/26、吉田の火祭りへの参加。最後は北口本宮で行われる2月の節分祭で、井田先達や講社の人たちが舞台の上から名入りの枡を手にみかんをまく。夫人を伴い(井田夫人は講の行事に家から出ることはない。確か体調がよろしくないと聞いた覚えがある)、雪の吉田を歩く井田先達の姿を以て締めくくる。

江戸川区の富士講 ―割菱八行講―映像ライブラリー11民族文化映像研究所制作、江戸東京博物館企画・制作・監修江戸東京博物館1990年6月-1991年1月撮影、1992年制作44分割菱八行講

▲江戸川区にある割菱八行講のオヒナミ(お日並)、山開きと七富士参り、火祭り参拝、正月の春祈祷(正月に世話人の家を一軒ずつ訪問して、先達手製のお札を配り拝みを行う)の様子を収録したもの。平野栄次氏の監修ということもあって大変詳細な映像となっている。火祭り参拝は三年に一度ということで、その点でも貴重。ただし、この講は人が少ないので登山はしていないという。江戸川区下鎌田にある富士塚の補修を自分たちで行う風景から始められ、構成・編集も悪くない。

富士塚と富士信仰文化財ビデオ4江戸川区教育委員会企画・監修、毎日映画社制作江戸川区郷土資料室1984年23分割菱八行講

▲郷土資料室そばの教育委員会文化財係を訪ねて問い合わると、倉庫の奥からビデオテープを出してきてくれた。廊下の椅子を運び、郷土資料室に置いてあるテレビデオで見る。ビデオは、富士信仰の概略を説明した後、割菱八行講の山開きを写すが、主眼は江戸川区に存在する富士塚の紹介にある。古い(おそらく昭和につくられたもの)郷土資料室の案内には、このビデオの内容として「●富士塚(区登録文化財)●今日に残る富士信仰の姿」とある。逆井・平井・船堀・長島・桑川・雷・中割・今井にある富士塚の一々を巡っている。途中平野栄次氏(若い!)が数度にわたって富士塚の形状や時代ごとの特徴を解説する。江戸川区の富士塚の話題だけに徹しているのは賢明と思う。平野氏は、山開きでもちょこちょこと脇を動き回っていた。最後は、今井の富士塚で再び割菱八行講の山開きを写し、秋元米作先達による五行お身抜(ゴゼンサマと呼ぶ)の読み方、携帯式の祭壇(拝み箪笥とは少し違う)の組み立てと飾り方を説明する。短いながらも見所の多い作品。貸出しも可(二週間との事)。

下谷の富士講 ―富士塚をめぐる人々― 台東区教育委員会企画、スタックス制作台東区教育委員会2005年35分東講

▲台東区下谷は小野照崎神社にある下谷富士とその造立者・山本善光、彼の師であり東講の祖である南沢正兵衛を追った作品。大谷の『成城大学民俗学研究所所蔵『不二信心独談手習真月集』―解題と翻刻―」』によって戦後始めて紹介された『真月集』が軸の一つになっていて、私の仕事が大きく影響を与えた例となった(一言も私の名前出てないですけど)。伊藤博監督と台東区文化財保護調査員の伊藤宏之氏との問答が随所に挿入されていてわかりやすい。ただ、伊藤宏之氏は南沢正兵衛を「みなみざわ―しょうべえ」と呼んでいたけれども、「南沢」の訓は『真月集』にも示されておらず「なんざわ」かもしれない。下谷富士を実地に基づいて解説し、浅草富士とその遺物や今も下谷富士に七富士参りをする丸藤宮元講社にも取材(現時点では最新の宮元講社の拝みを見る事ができる)している。更に小田原の枝講に所蔵されていた東講関係史料を地元の富士講研究家である小林謙光氏と訪ねる。山本善光自筆のお伝えなどをここで見ることができる。その中で万野風穴と東講との関連に触れている史料が示され、万野風穴にも東講の痕跡を求めている。万野風穴は東講が聖地としていた胎内で、山本善光の寄進になる石仏がある。他に富士吉田市にある東講が調製した伝食行筆お身抜の軸箱を紹介する。地元下谷の資料が富士塚以外にほとんど無い状況を逆手にとって小田原・富士宮・富士吉田を駆け回り、東講を描こうとした労作ともいえる。台東区教育委員会文化事業スポーツ課と中央図書館で2週間(中央図書館は1週間?)貸出可。

中里の火の花祭東京の民俗シリーズNo.10東京都教育庁文化課企画、東京都映画協会制作東京都教育庁1997年31分丸嘉講武州田無組中里講社

▲丸嘉講による火の花祭りの記録。丸嘉講と中里富士の由来から説き始める。祭礼当日の午前8時半から先達家に講員が集まり、祭りの準備を始める。先達家ではお身抜を掛け法具を並べ、幟を門前に立てる。手分けして準備が始められる。竹が切り出され中里富士に立てる蝋燭の台や御幣となる。その傍で地口行灯の紙が張り替えられる。同時に先達が大幣束を作る。それらが終わると中里富士へ飾り付けにいくが、講の女たちは直会用の料理を作っている。中里富士での飾りつけが行われる。一段落するとトラック二台分になるオタキアゲ用の麦わらを運び込んで積み上げる。麦わら松明を作り終えると日没を待つ。
 午後5時50分、富士講の装束に身を包んだ月番・先達をはじめとする講員たちが中里富士に登る。一同塚に登ると礼拝して、蝋燭や行灯に火を入れ、拝みの準備をする。拝みをしている間、ナレーションは食行の教義や富士講の伝播について語る。拝みが終わると、講員は酒を飲みながら下山するまで塚の上で待つ。夜が更けると参拝者が増えだし、近くで行われている盆踊りが終わる頃に蝋燭に火をともす。この蝋燭の燃えさしは安産のお守りになるという。午後9時を過ぎて、講員たちはかけ念仏を唱えて山を降りる。麦わら松明の前に整列すると松明をお祓いする。次いで四方固めの作法を行い、四方からお伝えの折本を転読のようにして繰る。終わるといよいよ松明に火が着けられ、拍手がおきる。先達は大幣束で火と観客を祓う。この火の花祭りは吉田の火祭りを模した火焚き神事として始められたといわれ、この松明に火をつけることをオタキアゲと呼ぶ。松明は盛んに燃えているが、観客はこの松明の灰を集め始める。この灰はさまざまにご利益があるとされ、火のついているうちに集めた方がご利益が大きいとのことで皆競って集めている。これらが終わると講員は再び塚の上に戻り、後片付けをする。観客たちは灰や蝋燭のもえさしを持って帰り始める。
 祭りが終わると、先達家で直会をする。一同乾杯し、料理と特製の手打ちうどんが振舞われる。うどんうまそう(笑)。この祭りがおわると中里は収穫の秋を迎える・・・とナレーションが終わり、暗闇に立つ中里富士を写しながらエンドロールが流れる。平野榮次氏の監修。東京都教育庁生涯学習スポーツ部計画課文化財保護係にて貸出可。ただし、新宿の都庁まで行って申請書を書かされ、しかも担当者がいる時でないと借りることができない。期間は応談だったような。

 このほかにも、品川歴史館に品川富士の山開きを記録したビデオがあるが、機器の不調によりビデオライブラリーが閉鎖されてしまった。2003/04/15の時点で再開の目処は立っていないという。早い復旧を望む。

千葉県

富士講の人々 松戸市立博物館企画、乃村工藝社制作松戸市立博物館1991年撮影7分清水講(富士嶽教会)、丸星江戸川富士講、西水元の富士講(『飯塚の富士講』参照)

▲博物館入って手前のブースで見る。これを見るだけなら入館料不要。7分弱の小品。なおブースではビデオが始まると停止以外の操作は出来ない。江戸川区の丸星講が、竹ヶ花にある雷電神社の富士塚の山開きに七浅間参りとして参拝し、次いで根本にある金山神社の富士塚に来たところを地元の清水講が出迎える。清水講のマネキに「富士嶽教会」とあるので、これが彼らの正しい団体名か。一方で小山浅間神社の山開きには葛飾区飯塚の講中が参っていた。辞去する彼らと入れ替わりに丸星講がすれ違うという場面構成がニクイ。替わって7月末、富士登拝(ふじとはい)に行く清水講。彼らは北口本宮に参った後、山に登る組と麓を行く組に別れ、カメラは富士に登る組を追いかける。

奈良県

上深川の富士垢離祭礼年中行事3夏のまつり東京福原フイルムス、奈良テレビ放送、放送映画制作所、新日本映像奈良県立民俗博物館撮影年不明約2分10秒不明

▲日照院さんのご教示。博物館奥のビデオ学習室で見る。2分強の小品。毎年8/24に奈良県山辺郡都祁村(現・奈良県奈良市)の農民が三本の竹を持ち元薬寺を出発し、深江川の決まった場所にて洗米と御神酒を立てた竹に供えて東に向き、浅間大菩薩を祈願して一から八まで数えて柄杓で水をかぶる(と音声では説明していたが、実際は汲んですぐ捨てていた)。これを一垢離として以前は一日に二垢離し、垢離作法がありオコモリをしていたが現在は一垢離のみという。近畿の、角行系ではない富士信仰を知る貴重な映像資料。