甲賀のセンゲンサン
▼関西の富士信仰
2005年の日本宗教学会学術大会は関西大学であった。今回は私も「『小泉文六郎覚書』の内容について」というタイトルで発表した。発表は初日午前だったので、これさえ終わってしまえばあとは身軽である。学会の開催地が大阪ということで日照院さんが初日(大会スケジュールとしては2日目にあたるが、1日目は式と講演だけだから私は行かない)から来てくださった。
日照院さんは関西各地の富士信仰を見てまわっている。大会が終わった次の日、もう一日大阪に滞在して、彼の案内で当地の富士信仰を見学させてもらうことになった。
関西には関東とはまったく違うタイプの富士信仰がある。それは角行系の富士講より古い起源を持ち、富士山においては大宮・村山を信仰の拠点としている。現地でも「富士講」や「浅間講」と名乗っており、名前だけなら関東でのそれと変わらないがその起源や信仰の実際は大きく違う。彼らは大峰修験と密接に関わっており、大峰講と兼ねている、あるいは大峰講の活動の一部として富士信仰をしていることもしばしばある。彼らは関東の富士講ほどには登山を重視しておらず、その代わりに富士垢離という、川や海での水垢離(しばしばオコモリという、垢離を取る人たちだけで堂などで一夜を過ごす行動を伴う)を毎年行う。そこで唱えられるものは角行系・神道系とは全く違う修験に属する祈祷文である。また、三重地方では近隣の山に浅間祠を祀り、垢離をとった後その山頂へ竹につけた御幣を持って参るという。こうした浅間を祀った山は、農業のある地域では「牛の神」といわれ、漁業のある地域では漁の安全を祈ったりヤマアテという漁場の目印になっている。大宮の神官たちは明治維新によって揃って東京へ移住し、村山を拠点とする富士修験自体は昭和のはじめごろ滅んだとされる。富士山西南の信仰拠点は近代から現代に到って衰退したが、彼らが檀那としていた中部・近畿の富士信仰は今も生きており、行者を欠いた形でも土着の行事として富士信仰が行われているところは多いらしい。また、京都・大阪を中心とした近世の都市部では富士行家とよばれるものがあった。富士修験の所属する聖護院の許可を根拠に、富士信仰の実践としての垢離を取る場を提供するものだったらしいが、今やその実態はよくわからない。ただ、本山派修験のブランド・権威と垢離を取ることを強く押し出している点・洛中に多くムラなどの地縁的な生活共同体に依存していなかった点以外は関西各地の富士講と大差ないものだったのではないかと想像する。
それほど広範囲に行われていた関西の富士信仰であったが、その研究は角行系の富士信仰に比べればはるかに少なかった。その理由として、
- 各地で行われてはいるが、当事者の意識として重視されていない
- あくまで修験道に属する一地方霊山への信仰・民俗であって、角行系の富士信仰に見られるような思想のユニークさが無い
- 地域によって研究のムラがある。特に三重県に属する地域の報告・研究が多く、中部地方や三重県以外の近畿地方の報告・研究がほとんど無い。
- 多様な実態と地域の広範さが災いして中部・近畿全体の富士信仰を概観しにくい。
ということが挙げられるのではないかと思う。それでも最近中世の富士信仰研究と共に着目されており、少しずつ報告や研究も増えているといえよう。関西の富士信仰研究は富士信仰研究全体としては今後期待される分野である。
▼貴生川に降りて
さて、そんな関西の富士信仰を私に垣間見させるために日照院さんが連れていったのは、貴生川という駅だった。滋賀県の南部にあり、滋賀とはいえ琵琶湖より三重県境のほうがよほど近い。車窓から見る限りでは山を背景にして水田が広がっていたが、関東で見る田園風景より背後の山が近い気がした。貴生川駅前はロータリー以外何も無く、向こうに大きな病院が見える程度だった。駅を出ると日照院さんは携帯電話でいずこかと連絡していた。その後、駅から伸びる道を歩き一軒の民家についた。我々二人をクルマで案内してくださる地元の郷土史家吉永博氏である。吉永氏は甲賀地方の富士信仰を研究しているが、甲賀地方の修験行場である飯道山で大先達を務める行者でもある。吉永氏はいささか予定より早く到着してしまった我々を茶菓でもてなしてくださったが、談話もそこそこにセンゲンサン見学にいくことにした。「センゲンサン」とは、漢字で書けば「浅間さん」であるが、ここでは民俗語彙らしくカタカナで表記することにしたい。また一般的に地元では浅間信仰の対象としての石造物を「さん」付けでこのように呼ぶらしい。
まず我々一行が向かったのは水口町宇田の某家であった。ここでは富士参詣曼荼羅を所蔵しており、見事な富士参詣曼荼羅を見せていただいた。おそらく中世の作と見る。ただ、どうも富士山が左右に寸詰まりで、落款らしき墨書が切断されているように見える。表装の際に断裁されたのだろうか。見事な曼荼羅ではあるが、無断で公開するのも気が引けるのでここでは写真を公開しない。その代わりに同じものの写真が富士宮市教育委員会編『村山浅間神社調査報告書』(富士宮市教育委員会、2005)の口絵p.[13]にあるので、そこから引用する。この家のご主人は吉永氏と同じく飯道山修験の先達ということだが、また書家・画家でもあるとのことでその居間にさまざまな書画が掛けられていた。
次に我々が向かったのは水口町泉の泉福寺である。境内入って本堂手前の壁際に「浅間社」と書いた立て札と共に大日如来の石仏があった。石仏なのに「浅間社」である。私は実物を見て我が目を疑ったが、これがこの泉の浅間「社」なのである。そして、このような「センゲンサン」と呼ばれる富士山の神としての大日如来が集落ごとにあるというのだ。私は関東でこのような例を見たことが無い。カルチャーショックを受けた。
泉から水口町岩坂に出た。踏切を渡ったところにこの川の細い支流があり、それをまたいだ木陰に「浅間神社」の石碑とセンゲンサンがあった。浅間神社石碑の裏面には「昭和二年七月建之」とある。この支流に面して何か華を供えていた形跡があった。それよりこの近くには草津線の車窓からも見える、2メートルはある巨大な十三仏の石碑がある。途中、クルマを止めていただいて見入る。
泉の浅間社(サムネールは部分) | 岩坂のセンゲンサン。石碑後方に石仏が見える | 岩坂の十三仏碑(サムネールは全景) |
▼水神として各地に立つセンゲンサン
水口町岩坂から同町高山へ走る。センゲンサンは一般的に水神として意識されているらしい。関東の浅間社や富士塚にはそのような側面はない。おそらく富士垢離という川を利用した行事を伴う信仰故の解釈なのではないかと思う。市中を流れる杣川沿いにもセンゲンサンはある。高山にあるセンゲンサンは「富士山」の石碑と並んでいた。写真ではわかりにくいが、ここは土手の上であり、背後の河川敷の向こうに杣川が流れている。
川沿いに南下して同町杣中に至る。杣川から滝川という支流が直角に流れている。その付け根の土手に大樹があり、根元にセンゲンサンが安置されている。今は垢離場が河川改修でなくなったため垢離は行われていないものの、未だに7月に祭りが行われている。この祭りの様子は前掲の『村山浅間神社調査報告書』p.102に詳しい。(祭りの様子)我々が行った時もセンゲンサンには注連縄が張られ、真新しい板塔婆が立てられていた。そこには「奉祈交通安全/(割書)杣中養寿会/冨士浅間講」とある。センゲンサン自体には「宝暦拾三歳/六月日」とあった。宝暦13年(1763)となれば、もはや江戸に富士講が存在していた時期である。
高山の浅間社。土手の上に立つ | 杣中のセンゲンサン(サムネールは全景) | 杣中のセンゲンサン背面 |
杣中のセンゲンサンを離れ、クルマは道のうねる水田地帯を走る。「水口町をちょっと出て甲南町に入ります」と吉永氏。途中、神社わきの道に入ったかと思うと舗装のされていない細い道を進み、小川に面した道の終わりで止まった。甲南町市原というところである。小川を越えたはるか向こうに緑の山々が連なっていて、飯道山もその中にあるという。小川を背に大きめの石を平たく積んだ塚があり、その上にセンゲンサンがあった。石の堆積は塚といえば塚であるが、石も川原にあるようなもので関東の富士塚とは似ても似つかない。高さも、センゲンサンを含めても人の背よりやや低い。
市原のセンゲンサンからまた水口町に戻る。次は水口町山上である。高山や杣中とうってかわって山深い。飯道山に連なる庚申山への登山道が近いらしく、登山道への標識が道のあちこちに立っている。「若宮神社」と標柱の立つ神社の前にあるT字路でクルマを止めたものの、路傍にそれらしきものはない。この道の周囲は一段低い畑になっていて、さらに一段下を水渠が垂直に走っている。センゲンサンはこの道から畑に降りたところにあるという。そこは見る限り草が茂っていたが、私と日照院さんはそこへ降りて草の中を進む。二人で「無い無い」と言って探していたところ、水渠に沿ってある小径の傍らにセンゲンサンが二体あった。一体は首が欠けており、造りなおしたのが向かって左であろう。センゲンサンの脇には竹を縦に割った小片が多数置いてあり、一つずつに「家内安全」という文句と名前が書いてある。クルマのとめてある道に戻るとT字路の民家からおじいさんが出てきて話をしてくださった。センゲンサンの脇にある小片は毎年老人会(もう講は無い)で祭りを行っていて、その時作るのだという。以前は神社のお堂に籠もっていたが今は行われないらしい。昔は水渠で垢離など取ったのだろうか。日照院さんと吉永氏は向こうの山々を眺めつつ鈴鹿山脈がどうのと話しているが、土地勘の無い私にはさっぱりわからない。
市原のセンゲンサン | 山上のセンゲンサン。小片が後ろに並べてある | 祈願を書いた竹の小片 |
山深い山上を降りて、一行は貴生川へ戻ってきた。途中、庚申山登山口にあった銅製の三猿を石で再度作ったという、京都金属地金組合にによる「庚申堂」碑(昭和36年)を通りかかる。岩坂の十三仏碑といい、大きな石造物がよく見られるものである。
貴生川駅から大きな病院が見えるのだが、我々はその近くにあるセンゲンサンでクルマを止める。このセンゲンサンは杣川の土手ではなく、土手に並行する車道の手前にある。お地蔵さんと間違えられているのか、赤いよだれかけがセンゲンサンに掛けられていた。ここは貴生川でも東内貴という地区であり、杣川の対岸を挟んで対岸にある三本柳にも同じ位置にセンゲンサンがあるという。かつてはこの杣川で垢離をしたということだが、今では生活廃水や工業廃水で汚れていてとてもではないが出来そうにない(関東人の感覚としては荒川とか江戸川のような川である)。
我々一行は水口町の中~南部を途中甲南町に寄りながら、杣川沿いに一周してきた。一通り見学を終わると吉永氏宅へ寄り、吉永氏が撮った写真などを見ながらしばし談義した。はじめに書いたように、吉永氏はこの地方の富士信仰の研究家として知られており、研究の蓄積を生かした著作を準備しているところだという。氏のクルマを伴った一日のご案内に心から感謝し、また研究の結実を大変期待するものである。ぜひ関西の富士信仰研究に寄与していただきたいと思う。また、まるで縁の無かった甲賀地方を吉永氏と共に案内してくださった日照院さんにも心から感謝したい。そもそも日照院さんが先行してこの地方の富士垢離行事を広く見てまわっていたからこそ、このセンゲンサン見学もできたのである。彼の研究にも心から期待したい。
庚申堂碑 | 東内貴のセンゲンサン。背後に杣川 | 貴生川駅前にあった水口町の地図(サムネールは部分) |
▼おわりに
関東の富士信仰しか知らない私にとって、この一日はカルチャーショックの連続だったと言っていい。大日如来の石像を以てセンゲンサンと呼んで各集落に置き、(講は無くなりどこも老人会が行っているにせよ)毎年その石像に対して祭礼を行うという、その富士信仰の形態は関東では全く見ない。代わりに、この地方では我々が見慣れている富士塚や先達の登山三十三度記念碑などもなく、「参明藤開山」の題号も見ない。また、泉のもの以外のセンゲンサンは全て水神として川べりに立っているが、このような性格も関東の富士信仰には無い。どちらかといえば、例えば安産の神であったりあるいは子育ての神だったりするが、逆にそのような性格はこちらのセンゲンサンには無い。もっともこちらのセンゲンサンは安産の神話があるコノハナサクヤヒメではなく、ひたすら仏教の大日如来なのでその尊格の性格が反映されたものと考えることも出来る。ここで見た大日如来は専ら金剛界のそれであったが、彼は水大の種子vaを含むvaMを種子とする。すなわち水徳の仏である。そのような発想も可能である。
これらの信仰はもちろん私が角行系と呼ぶものではなく、むしろもっと古くもっと日本宗教史的にはオーソドックスな立場によるものである。しかし、その割には知られていないし、研究自体も多くない。角行系宗教に劣らず、こういった富士信仰の研究が現地の人たちによって進むことを願いたい。