食行高札について菊池邦彦氏に反論する

▼食行身禄による高札についての概略

 テーマになっている食行身禄の高札とは、角行系の五世代目に位置する行者である食行身禄(1671-1733)が享保16年(1731)に書いたとされるものである。以下、「高札」と略称する。
 食行は富士行者として毎年富士山への参詣登山を行っていたが、享保16年の登山は「一切決定」と位置づける重要なものであった。その時の様子は、本人によるルポと歌集を兼ね備えた『食行身禄Ё(「クウ」。当HPでは角行系文字とよぶこの宗教で用いられる一群の文字をロシア文字などで代用的に表記するルールを採用している。後に出てくる「ガン」の代用表記「Ц」も同様である)一切決定の読哥』に詳しい。この中で、食行は富士山頂の薬師が岳役所と、登山口である下仙元(現・富士吉田市の北口本宮富士浅間神社)の富士山大鳥居きわの二箇所に高札を立てたという。
 その高札の一枚が、今から論じようとしている物品であるとされる。これは元々食行の死後彼を喧伝して富士講の成立やその隆盛に寄与した御師・田辺近江家から、郷土史家の伊藤堅吉氏(故人)が買い取って所蔵していたもので、伊藤氏はこれを山村民俗の会による民俗研究の同人誌『あしなか』の78輯(1962)にて紹介した。伊藤氏は、時代を経過してあまり良好に判読できないこの高札の文面を判読して紹介したが、この時彼は、食行の用語法では「生きとし生けるもの」を意味する「万法の御しう生」というフレーズを「万法の御みな」と誤読し、この高札を富士山の女人禁制が解禁されたという意味だとした。この読み方はこれを参照した岩科小一郎『富士講の歴史』でも踏襲して紹介されている。
 この高札の文面は素直に読めば、「これから身禄の御世になり、富士山の名前も参明藤開山となった。従来はコノシロ・コハダを食べてはいけなかったが、これからは食べても構わない」という趣旨にとれる。この文面を理解するには、食行による神話の知識が不可欠であるが、今回はそれが目的ではないので端的に解説する。
 食行による神話によると、この世界はチチとハハという二人の神によって造られ、12000年後に「天照大神宮」すなわち我々が知る神道的な神に委ねられた。それから6000年後の元禄元年(1688)6月15日、世界は再びチチとハハの子である仙元大菩薩という神に委譲されたという。富士山は世界が作られる以前から泥の海とともに存在するが、「須弥山」や「霊鷲山」などと名前を変え、四回目に「御藤山」となったときに人間が造りだされた。富士山の神聖な名号として「参明藤開山」という名前があり、それは「さんみょうとうかいさん」「三度あきらかにかいさんふじへまいる」「みかどふじさんをひらく」と三通りの読み方がある。それまでの角行系では「明藤開山」を富士山の名号としてきたが、食行師匠の月行が神のお告げを受けて上に「参」の字を付与した。これらの出来事は、月行が元禄元年6月15日が富士山頂で受けた神のお告げ(世界の委譲と「参」の字を月行に与える、ということ)に由来している。
 コノシロとコハダは、食行以前から、一般的に富士山の神とかかわりのある魚とされてきた。一般には、富士山の神の恩寵を得ているとされ、富士山に詣でる人は食べていけないものとされた。またコノシロは「子の代」「この城」と理解され、語呂合わせの上でも食べることを嫌われた。この魚が食用として価値が上がるのは小川顕道の随筆『塵塚談』がいうように文化年間のころであり、少なくとも食行の時代には忌まれた魚だった。角行系でも、月行の兄弟弟子とされる月Ц(げつがん)が、その師のЦ心(がんしん)に入門して一生守るべき戒律を言い渡されたとき、「浅間(富士山の神)はこれを忌むので食べることは大悪事である」と言われている(『公事の巻』)。つまり、食行が富士山に詣でるなら食べてはいけないこの魚の食用を許した、ということがこの高札の意味であり、それは世界の支配者が改まったためである。私は食行がこのように宣言した理由として、この魚が忌まれていたのは、それが旧来の神々に基づくタブーだったからであり、その失脚によって禁忌が無効になったということを言いたかったのではないかと推測した。これらについては、当時の研究水準ではあるが、「食行身禄が富士山に立てた高札」(仏教文化学会『仏教文化学会紀要』第8号、1999年、以下「拙稿」) にて、高札の翻刻も含めて書いており(月行が神告を受けたことなどは当時まだわかっていなかった)、この度の菊池氏の批判もこの論文に対するものである。
 ちなみに、このような文面を持つ高札が、『食行身禄Ё一切決定の読哥』で書かれている高札そのものなのか、真贋が問われるのであるが、文面の字が食行の確実な自筆として知られるものと比較しても遜色ないこと、また内容的にも食行が説いた神話や角行系での背景を抜きにして理解できるものではないこと、更に吉田御師たちが捏造するのならばそれこそ食行の言行録として捏造された『三十一日の巻』のようにもっと気の利いたわかりやすい文面にするだろうと思われ、これらの点で食行によって造られたものと認めてよい。ただし、現存しているものが二枚立てたというどちらかなのか、またそれらとは別の予備みたいなものなのか、といったことまではわからない。

▼高札の近況

 高札は食行の弟子を名乗った(食行には弟子は一人もいなかったと考えられる)田辺十郎右衛門という人物が長らく所蔵していた。この人は富士山の山道で水を売ることを職としていたが、後に御師株を買って御師となった。御師について解説するのはやはりこの文の役目ではないが、この場合は、富士山登山口の吉田口を通じて登ろうとする登山者の宿泊・入山の際に行うお祓い・それに強力や弁当の提供といった登山のサポートサービスなどを行う宗教者の一群である。身分的には武士であり、登山者に対して文字通り「師」としてふるまった。御師には受領名を用いた名乗りがあり、彼の場合は「田辺近江」である。この名乗りは代々踏襲される。
 その田辺近江家が所蔵していた高札は、昭和になって郷土史家の伊藤堅吉氏に売却された。その事情には不品行なものがあるらしいが、今にそれを問う必要は無い。伊藤氏は1989年に亡くなったが、彼が収集していた富士信仰関係や性民俗関係のコレクションは、しばらく彼のご子息の勝文氏が引き続いて所蔵していた。私が1996年に勝文氏を訪ねて調査させていただいたのもこの期間である。その後、勝文氏はコレクションを売却したと風の噂に聞いていた。所有者が誰にどう売却しようと自由であるが、この高札の無事を祈らずにはいられなかった。しかし、如何なる経路を経たか、突如として伊藤氏旧蔵の食行遺物は富士吉田市立歴史民俗博物館が所有することとなった。この博物館では伊藤氏存命のころにもこれらの売却を働きかけていたが、成功しなかったという。伊藤氏旧蔵の食行遺物は高札だけではなく、他には食行が着たという行衣や文書類が含まれている。博物館はこれらの権利関係の整理に大変な苦労をしたと聞いており、この点には敬意を表したい。この整理完了を機に2008年、博物館にて「身禄の聖物」と銘打った特別展が開かれた。私もこの特別展を見たが、確かに食行の思想を求める者にとっては大変価値の高いものばかりが集められていた。特別展開催時に図録は間に合っておらず、後で作られたのだが、菊池氏が判読の材料としている高札はこれに掲載されている写真である。
 私は、上にも書いたように、1996年、勝文氏を河口湖に訪ねて高札を調査した。伊藤氏の誤読は、1993年に埼玉県鳩ヶ谷市で角行系の一派である不二道の研究をしている岡田博氏によって既に指摘されていた。私は食行の研究をするものとして、高札の調査をしたいと思っていたが、あまり文面の状態がよくないことも指摘されていたので、赤外線フィルムを用意した。私は若いころ、天体写真に興味を持っていた為に写真の知識が多少あり、普通に撮影したのでは先行する判読と同じ結果に終わるだろうこと、また墨で書かれたものなら赤外線写真が有効であることも想像できた。赤外線写真は光量が豊富でなければ明るく写らないが、天候に恵まれて豊かな太陽光のもと、伊藤家前の駐車場にて高札を撮影した。結局私の読みは正しく、現像後、非常に明瞭な写真を得ることができた。もはや今から14年も前の話であるが、調査を許してくださった勝文氏には心からお礼を述べたい。

▼菊池邦彦氏の批判

 私は1999年に拙稿を発表して以来、特に高札については何もしてこなかった。2008年の特別展で高札に再会し、12年前の調査を懐かしく思った程度である。そこへこの度発表されたのが、菊池邦彦「食行身禄が立てた富士山の高札の意味」(山梨郷土研究会『甲斐』第121号、2010、以下「菊池論文」)である。『甲斐』という雑誌はその名のとおり山梨県の郷土史研究誌で、このテーマでは最高に権威のある雑誌といってよい。『甲斐』のこの号は創立70周年を記念して富士山を特集しており、富士山をテーマにした論文ばかりである。
 菊池氏は従来の伊藤・岩科・岡田の各氏と私の研究を挙げて、さらにくだんの特別展図録(『富士吉田市歴史民俗博物館企画展身禄の聖物 : 田辺近江家資料を中心に』富士吉田市教育委員会、2008)にある高札の写真(21ページ)から見た菊池氏自身の判読を挙げている。その上で私の赤外線写真による判読と図録掲載写真による自身の判読に違いがあるという。この点も含めて、菊池氏が私の研究に対して主張していることをまとめると以下の3点になるだろう。

  1.  高札にはルビが付されているが、私は後代の版行された写し(不二道や吉田御師は高札を写したものを刷って配布していた。鳩ヶ谷市立郷土資料館に蔵されている)にそれらがないことを理由にこのルビが食行以外の人によって後補されたものではないかとしていた。しかし、菊池氏は他の食行自筆にもルビが見られることから高札のルビも食行自身が振ったのではないかとする。
  2.  そのルビを食行が振ったという前提で、先頭から五行目、「おんきわまりリ被遊候間万法まんほうおんしうしよゑ」と私が判読したところの「御しう生」のルビは、「おんしう」と読むべきである。「しう生」に一括して「な」のルビが与えられているのであって、従ってここは「おんしう生」と読み、つまりここは「おんな」と読むべきなのである(なお、この文はInternet Explorerで読めばルビが振られているはずであるが、それ以外のwebブラウザでは丸カッコつきでルビが表現されるはずである。以下同様)。
  3.  結論として、「本高札には女性に関する何らかの由緒が纏り付いていたのではないかと考えられるのである」(菊池論文129ページ)とし、この高札が女性に呼びかけるものであり、伊藤氏以来の富士山への女性登山解禁を示すものだったという説を支持するものである。

 この論文を一読したとき、私は大変驚愕した。「角行系」をはじめとする独自の枠組みで角行藤仏にはじまる富士信仰を理解しようとする私は、今まで他の富士信仰研究者から全く無視されていた。菊池論文は、史上初の、私に対する本格的な批判である。しかし、驚愕と同時に困惑も隠せなかった。なぜかといえば、菊池氏は現状で私よりはるかに高札に近い立場にいるにもかかわらず(特別展図録でも菊池氏は協力者として名を連ねている)、出版物の写真だけを見て、赤外線写真から判読している私に対して判読がおかしいと主張しているのである。もし、菊池氏が高札の判読について私を批判するのなら、私以上の装備を用意して高札の鮮明な画像を得てから為すべきであろう。確かに図録の写真はよく写っている。しかし、図録上では高札の写真は8×11cm(実際に計った)の面積しかない。その程度の写真で、私が得ている以上の結果が得られるとは思えない。実際、問題になっている高札の「生」字ルビは、後で示すように「な」とは到底読めないのである。それ以上に、菊池氏の主張、特に無理に「おんな」と読もうとすることには、無理がありすぎる。私には、菊池氏が最初から高札が女性に関係するものと決め付けていて、そのための議論をひねりだしているようにも読めた。
 食行著作への研究を人一倍以上行っている自負のある私は、郷土史研究から迷い込んでしまったがゆえに論理のつながらない食行研究を公表してしまったと思われる菊池氏と、同じ土俵に立っているとは最初から思っていない。食行の主張は冒頭に示したとおり大変特殊なものであり、伊藤氏や岩科氏がしたように郷土史・民俗を背景に考えてよいものではない。食行の主張を理解するには、郷土史や民俗とは別次元の論理に慣れる必要がある。私は100年以上になる富士信仰の研究史を収集しているので、菊池氏の富士信仰に関するいくつかの論文も当然拝見している。菊池氏の研究は、率直に申し上げて、郷土史としてはそれなり以上の成果を挙げていると考えてよい。しかし、少なくとも食行を扱ったこの論文については、高札について純粋に追求する以外の何らかの意図を以て書いているのでない限り、首を傾げざるを得ない内容と言うしかない。
 そのような困惑もあって、私は菊池氏の批判を無視することもしようと思えばできた。が、私による高札のこの箇所の判読が間違っているという点については承服できないし、このままでは私のちっぽけな名誉も傷ついたままになってしまう。もちろん、私も文献の翻刻についてミスをすることは多々ある。活字になってしまった後で気づき、大変申し訳ないと思うことも一再ではない。もし菊池氏の指摘がそのようなものであれば、私は受け入れたであろう。私は自分の翻刻がすべて正しいと思うほどうぬぼれてはいない。むしろいつミスが発見されるか常に恐々としているのが本音である。しかし菊池氏は、上に書いたように私が用いたものより程度の低い材料を用いて、間違えようの無いものを間違っていると批判し、よりによって女性蔑視旺盛な食行(それは当時の男性一般の感覚だったはずで食行を現代的な人権の尺度で評価することが間違っている)が女性へのメッセージとして高札を書いたと主張している。こればかりは看過すべきではないと考え、この文を書くことにしたのである。

▼上記に対する反論

●字形の問題

 高札の赤外線写真は、拙稿にて掲載しているが、印刷があまりよろしくなく不鮮明である。そこで改めて公表したいと思い、フィルムを探し出してスキャニングした(下、左の画像)。これらの写真は私によって1996年に撮影されたもので、著作権をはじめとする諸権利は私が保有している。コンピュータで閲覧するためのキャッシュとしてのダウンロードはともかくとして、私の権利を侵害する行為は禁止する。ちなみに、以下の写真はクリックすると拡大し、本来の大きさとなるので、とくとご覧いただきたい。なお、高札の翻刻もこのページ末尾に示した。

高札全体 「御しう生」 「御名」
高札全景 「御しう生」 「御名」

 私は高札を撮影する際、全体の他に部分を複数枚撮影している。そのうち当該の「御しう生」が写っているコマからその部分を抜き出して掲出する(上、中央の画像)。私には「しよ」と読める箇所を菊池氏は「な」と読んでいるのであるが、果たして、これが「な」であろうか?
 「な」という音を表す万葉仮名には「奈」「那」「名」「南」「難」などがある。おそらく菊池氏が想定しているのはこのルビの字形からして「奈」であろう。しかし、くずし字として「奈」という文字を書くには、まず「大」の部分を表現するために横画を書いた後に左下へ落ちなければならない。その後、右へ弧を描いてから下へ落ち、下に到達して左・右の順に「示」の部分の「ハ」を描くのが、くずした「奈」字の一般的な書き方である。では、高札のこの字はどうだろうか。横でちょんとつけて始まってから上り、左へいく気配を見せずにストレートに下へ落ちている。その後、弧を見せずに跳ね上がり、左へやや張ったままストレートに落ち、最後は左肩を挙げて右下へ落ちて終わりとなる。どちらかといえば、上半分は「奉」という字のくずしに似ているが、私はこの字をくずし字の「奈」として読むことはできない。また、上のルビ「おん」を比較するとこの字の長さは二文字分であり、従って「な」一字の大きさとも思えない。結局、1996年当時の私はこれを「しよ」と読んだが、2010年時点の私もこの判読が間違っている、あるいは「な」である、とは全く思えない。
 実はこの文面内にもルビとしての「な」がある(上、右の画像)。前から四行目、上から四文字目の「おん」というフレーズであるが、この「な」は真正にわれわれが知る「奈」の万葉仮名である。もし、食行が「生」のルビとして「奈」の万葉仮名を用いて「な」と表現するのであれば、この丸まった「奈」字を用いていなければならない。「生」字のルビが、「御名」のルビと同じ読みであるはずにもかかわらず字形が違うことについて、菊池氏はこのように述べている(p.132注12)。

先述のように、この高札で、食行身禄は「おんな」というルビを「御名」と「御しう生」という二か所に振っている。しかし、前者の「な」と後者の「な」は書体が異なっている。前者は身禄真筆によく見られる書体であるが、後者は一般的書体で肝腎の「御しう生」に振られた「な」の方が身禄真筆の中に同形態を見いだしがたいのである。大谷氏が苦心の末「しよ」と判読された原因でもあろう。

 心境の忖度まことにご苦労であるが、私はこの箇所に苦心した覚えはない。「万法のしう生」(いわゆる『一字不説の巻』では「まんほうのしう生」と書く)というのは、食行著作においては「生きとし生けるもの」を意味する見慣れた単語だからである。しかも、私には字形としてもこれが「しよ」にしか見えなかったし、今もそのように見える。
 菊池氏のいう「一般的書体」とはどのようなものを指すのだろうか。私は写本・刊本・また富士信仰ではないものすらも含めて決して少なくはない数の江戸時代の文字を見ているが、「御名」のルビに使われている「な」字はよほど当時の一般的な字体に見える。上に書いた「奈」のくずし方そのままである。おそらく、想像であるが、菊池氏は「生」のルビを見て、現代的な平仮名の「な」を想起したのではないかと思う。通常、現代人が平仮名の「な」を書くとき、それが漢字「奈」のくずし字であることを思って書くことはまずない。二画目の縦棒を左へ反らして書かないことは珍しくないし、その後右へ弧を描いたりもしない。それは平仮名の「な」を書くときに、漢字「奈」のくずしたものとは考えないからである。現代人の平仮名として「生」のルビを見たとき、間延びした下手な「な」と思ってしまうことは、あるいはあるかもしれない(私は無いが)。おそらく、菊池氏がこれを最初から破綻している論理を振りかざしてまで、「生」を「な」と読むのは、おそらく現代的な平仮名がそこに見えているからではないだろうか。食行は江戸時代の人だから、当然現代的な平仮名の書き方をした「な」字を用いることは無い。菊池氏が「身禄真筆の中に同形態を見いだしがたい」のは、ごく当然のことなのである。それは元より「な」ではないのだから。

●なぜ本文を読み飛ばす?

 今、私は「破綻している論理」という言い方をした。それは、たぶん菊池論文を読んだなら誰もが思うことであろう。すなわち、食行が「おんしう」と書いていたのならば、それは「おんしうな」と読むべきであり、なぜわざわざ「御」と「生」の間にある「しう」を飛ばして「おんな」と読まなければならないのか、ということである。間違ってはいけないことであるが、「生」の字のルビは、写真で見てもわかるように「しう」字には全くかかっていない。「しう生」三文字に通じてこのルビがかかっているわけではないのである。
 複数の本文字に対して一語のルビを振るということは、覚えている限り江戸時代の黄表紙や読本の類にならある。それはルビ自体に一定の意味がある時のみ行われる。現代でも、俗に 「強敵」と書いて「とも(友)」と読ませる、といったルビの使い方がある。しかし、高札の場合、菊池氏は「生」のルビとしてそれだけでは意味の無い「な」を「しう生」という三文字のルビにあてようというのだ。そのように読まなくてはならない理由がどこにあるのだろうか。
 私は食行自筆について、富士山本宮富士浅間神社(富士宮市)が所蔵するいわゆる『一字不説の巻』と現在三重県教育委員会が所蔵する『食行身禄Ё(くう)一切決定の読哥』の二つの写真を所持している。その二種の自筆の写真をざっと眺めた限り、そのような、複数の本文字に対して意味の無い一字のルビを与えるケースは一つも見いだせなかった。しかし、それ以前に、「おんしう」と書いても、そのまま読めば「おんな」になることは無い。もし、そのように読めるのであれば、実態を無視して最初からそう読みたい時だけであろう。正直な話、高札の写真を出さなくとも、この点だけで菊池氏の主張は十分破綻している。さらに菊池氏は食行自筆をいくつか見ているようであるが、それらにおける「複数の本文字に無意味な一文字のルビをあてる」用例の有無については言及していない。故意にしていないのか否かはわからないものの、菊池氏が他に用例を見つけていれば取り上げたであろうし、そうではないから沈黙しているのであろう。
 ついでながら、高札で「しう生」の上に「御」字がついているのは、これが披見される目的で書いたものだからであろう。『食行身禄Ё(くう)一切決定の読哥』の巻末に書かれていることでもあるが、食行はこの高札に大変な期待をかけていた。だから、「しう生」が「みんな」を意味するなら、「御しう生」で「皆様方」というニュアンスになったところで何ら不思議は無い。
 ところで、掲載誌の『甲斐』は上に述べたように権威ある雑誌で、当然この論文も査読を経てから掲載していると思うのだが、この菊池氏の論理に対して異論が出なかったのか、大変気になる。高札の翻刻自体は菊池論文でも挙げられているので(「生」のルビが間違ってはいるが)、それだけから判断しても「しう生」三文字に「な」が掛かるとは読めないと思う。また山梨県の郷土史研究関係者たちがくだんの特別展図録を参照できないとも思えず、その点でも首を傾げざるを得ない。

●女人登山解禁?

 菊池氏の高札に対する論証は、ひとえにこの高札が女人登山解禁を意味するものであるという結論に帰結させたいがためのものである。これを最初に言い出したのは冒頭でも述べたように伊藤堅吉氏なのであるが、伊藤氏の書いたものを読めばわかるように、伊藤氏の文章はエキセントリックでセンセーショナルな書き方をするくせがある。『富士山御師』(図譜出版、1968)など堅実なつくりになっているものもあるし、また1960年代に富士信仰の史料を数多く紹介した功績がある反面、奇をてらった主張をする著作も多く、現代の富士信仰研究においてそのまま彼の主張を取り上げる人は見かけない。菊池氏は、私が、「何故伊藤氏が高札を「女人禁制解禁の高札」と評価したのか、その理由を考察の対象外にしておられる」と疑問を呈しているのであるが(p.131注8)、史料の誤読から構築された評価を考察する必要がどこにあるのだろうか。史料を正しく読み、その上で意見が異なるのならば、何故その意見に至ったのかを考える必要はあると思う。しかし、私は当時既に伊藤氏の判読が誤っていること、すなわち現物に「おみな」という読みが最初から存在しないことを知っている。
 上にも書いたように、食行には食行なりの独自のロジックがある。それはいわゆる『一字不説の巻』に説かれる神話や歴史観、また後の著作に見られるその変遷である。高札文面も、このロジックに沿って読むと、きわめて明快に言いたいことがわかる。すなわち冒頭にも書いたように、世界の支配者交代とそれに伴う旧来のタブーの破棄である。確かに食行がこの高札に大きな期待をかけたのもうなずける。しかし、食行は女人が登山することについて、何のコメントも残していない。むしろ、彼は、いわゆる『お添書の巻』とよばれる無題の著作に「(歴代の将軍たちが死に絶えて)のこるは美女のあくばかりなり」「えつたこちづきのまえしりのことに金銀おばかしとられ」などと書いているように(「まえしり」は女性器の隠語)、現代人なら目を背けたくなるような女性への蔑視を有している。そのような食行の著作を読み慣れていれば、食行が女性に対して好意的なメッセージを放つということがまず信じられない。
 また、食行の在世当時、富士講というものはまだ無かった。村上光清や月行息子の惣兵衛が「同行」として集団化していくのが確認されるのは元文・寛保年間であり、食行の在世よりもう少し遅い。ましてや食行の弟子と名乗る信徒たちが同行を成立させていくのも早くてこの頃だろう。
 富士講が盛んになる以前の富士参詣は、今も近畿・中部地方に名残りがあるような修験道的なもので、七日から多くて百日(『公事の巻』で月ЦがЦ心に入門したのは百日から五十日かかる富士参詣の為の潔斎を七日に短縮させてくれるからである)の潔斎が事前に必要だった。すなわち、食行当時は大の男でも富士山に参詣するのは大変だったのである。もし、富士登山の簡便化を望むなら、女人禁制解禁を言う以前に潔斎の短縮を言うべきであり、実際富士講の流行以後は彼らの流儀に従う限り、そのようなことが問われなくなったものと思われる。伊藤氏も菊池氏も、食行の生きていた享保期の富士信仰の姿として、それこそ文化~天保期でないと出てこないような富士講の姿を想像しているのではないかと思う。しかし、私の最近の研究は食行の前後を射程に収めており、その限りでいえば、富士講自体があり得ないし、富士山の女人禁制解禁というテーマも現れようがない。ましてや、上で写真付きで明らかにしたように、史料の判読も読解も誤っている上での意見である。正直に申し上げて、高札=女人禁制解禁説は検討する価値すら無い。

▼結びとして

 実は、菊池論文には一点だけ、自らの説を再検討してもよいと思わせる主張がある。それは高札のルビが食行によって振られたのではないかとする説である。
 今回、上に挙げたように高札の赤外線写真をデジタル化した。拙稿執筆当時はサービス判のプリントを頼りに解読したものであるが、デジタル化してみるとコンピュータのモニタいっぱいに高札の文面を映し出すことができるようになった。拡大された写真をまじまじ見ている内に、高札のルビも食行の字なのではないかという気になってきた。特に「みろく」という食行が他の著作でもよく使う言葉や、ルビに多く用いられている「お」字などは、他の食行のものと比較しても同一の字のように見えなくもない。
 ただ、拙稿でも書いたように、後世の不二道や富士講で作られた写しにおいてルビが再現されていなかったことは、それが最初から無かったのではないかという推論が可能となる。もし忠実な写しとして作りたければ、文面にあるルビまで写すのではないか、と考えるのはごく自然である。また、写真によく出ているように、ルビと本文とでは墨の濃淡が違うのである。明らかにルビのみ薄い。このことは、ルビが別の機会に書き加えられたものではないかという想像を可能にする。
 よって、ルビを書いた人物については食行本人である可能性とそうではない可能性が考えられ、私は11年前に書いた自説に対して再検討を要すると判断している。菊池論文が私に与えた有効な示唆はこの点のみであるといってよい。菊池邦彦氏の判読は誤りであることが赤外線写真の提示によって証明され、その誤読から派生した説は、私の説を覆すには至らなかった。むしろ、高札=女人禁制解禁説に対する不信用が私の中で改めて強化されたのである。

高札の翻刻

 以下は上の写真からの翻刻である。
 高札は縦書きなのでこれも縦書きにすべきであるが、HTML文法的に煩雑なので(このページはHTMLも含めて全て手書きである)横書きで記す。ルビは本文と同じくInternet Explorerで読めばきちんと振られているはずであるが、それ以外のwebブラウザでは丸カッコつきでルビが表現されるはずである。カッコつきのルビが煩雑と思われる向きはInternet Explorerでお読みいただきたい。小さい送り仮名の「リ」は60%縮小で示した。表面文末の割書きはさすがにHTMLが思いつかなかったので注釈付きにした。等幅フォントを用いていないので、末尾の位置間隔は多少ずれていると思われる。

いちひらきぜんより三日の
からだんぢき仕御礼申上候
これよりしてわろく御世ごよ
御山のおんさんミやうとうかいさんおんかわり
おんきわまり被為遊候間万法まんほうおんしうしよ
おんつたゑおき申御事これまでわ
このしろこはだお御いましめ被為遊候
ゑどもこれよりしてわこのしろ
こはだもたべ申候ても不苦くるしからす御事
 
享保拾六年[割書で「亥/江戸すがもなか町」]
     六月十三日ぢききやうろくЁくう
 
(裏面)
江戸すがも中町野口弥右衛門地
亥六月十三日   ぢききやうろくЁ