二つの「中里富士」

▼「中里富士」といえばどっち?

 この同じ通称で呼ばれる富士塚の探訪記事が、「富士講アーカイブ」2004年最初のコンテンツとなる。
 私がこの二つの富士塚を訪ねてみようと思ったのは、あるテレビ番組のための問い合わせを受けたことから端を発する。いくつか撮影に適した富士塚を教えてほしい旨だったので私はいくつか列挙したのだが、その内の一つに「中里富士」があった。私がこのとき思い浮かべたのは東京都清瀬市にある、都指定有形民俗文化財に指定されているものだった。この富士塚を実際に見たことはなかったが、以前この塚を守る丸嘉講田無組中里講社の映像記録によってその塚がひとかどのものであると知っていたのでその時はこれを勧めた。しかし、「中里富士」というキーでGoogleを検索すると、そう呼ばれる富士塚がもう一つあることに気づいたのである。そのもう一つの富士塚が東京都練馬区にある通称「大泉富士」であり、「中里富士」とは地元での呼称であった。告白すると、私ははじめ大泉富士を清瀬のものと勘違いし「こんな明るい感じだったか?」と思っていた。この二つは両方とも西武池袋線沿線にあってしかも両方とも高さ10m足らずで、イメージだけはよく似ている。もともと行ったこともないものを勧めたことにやや気が引けたこともあり、この二つを訪ねてその差異を実見しようと思い立った。

▼清瀬市の中里富士

 まずは都指定有形民俗文化財に指定されている方の中里富士である。東京都清瀬市中里にあるのでこの名がついている。地元では「富士山」などと呼ばれているらしい。西武池袋線清瀬駅を北口から出て、駅前から伸びるけやき通りをまっすぐ行く。遠景には一戸建ての住宅がおもちゃのように並び、その手前には畑が広がるというのどかな武蔵野の風景が左右に続く。道なりに歩くと派手な家電量販店が交差点のかどにあり、そこを数十メートルくらい過ぎたところで左に入る。清瀬駅からバスが出ており、「新座営業所」または「旭が丘団地」行きのバスで「けやき通り」というバス停で降車するとわき道のすこし先に出る。ただしここまで歩いて15分程度なのでバスを使う意味もなかろう。
 わき道に入ってから10分弱、また道なりに歩く。途中左手、中里公園と呼ばれるグラウンドの向こうに赤い鳥居が見えるが、それは稲荷祠である。きついカーブにさしかかる手前にコンクリートで固められた富士塚の裾野が見えたら到着である。表に回りこむと、木々で囲まれた塚が鎮座しており、電光形の参道が頂上へ続いている。参道の塚側は崩れないようにするためか丸太を並べていて、よく公園にあるアスレチックコースか何かのように見えなくもない。
 白木の鳥居が入り口に立ち、周囲には石造物が配置されている。この塚の歴史は『A』『B』に詳しい。それによれば、文政八年(1825)の築造という。丸嘉講によって造られたとされ、現在も火の花祭りとして九月一日には盛大な祭礼を行う。彼らの活動は上にもあるように、第二十一講で紹介した『武蔵野の富士講 ―丸嘉講武州田無組中里講社―』(江戸東京博物館)に詳しく、彼らの様子を映像によって見ることができる。ただ、塚を見る限りでは明治前半に建てられた丸吉講の石造物もいくつかある。特に塚の登り口の両脇には猿を線刻にした石碑が建っている。実はこのタイプの石碑はもう一つの中里富士にもあり、しかもこちらも丸吉講の所産である。後で書くことになるが、中里富士からやや離れた日枝神社にも丸吉講の講紋を冠した「富士登山講中」と銘のある石燈籠がある。丸吉講のことについて『A』『B』は何も書いていない。おそらく、丸嘉講としては一旦廃絶したか何かの事情があったのではないかと考える。しかし、明治二十九年に建てた「富士山太々講社」とある石碑は丸嘉の紋が使われている。その時の先達は登山五十八度とあるので、丸吉講の時期と重なってしまう。とすれば、この中里地区の講は丸嘉講として作られたものの、一時丸吉講となり、それから「富士山太々講社」として再び丸嘉講の傘下になったものと推測すべきだろうか。しかし、「太々講社」とあるのは、おそらく北口本宮にある神楽殿で神楽を奉納するための講と考えられ、ならば一般的な富士講とはやや趣が違うのではないか。通常、富士講とは登山を第一次的な目的とする(もちろんその背後には信仰とか遊山といった動機がある)。今ある丸嘉講の活動にばかり目を奪われてその辺の事情を見落としてきたのではないかという気がしてならない。
 参道には合目石、小御岳神社の石碑、烏帽子岩の石祠がある程度で、にぎやかではないが、土の道は登りやすく、石で張り付けられた普通の富士塚のようにえっちらおっちら登るという感じではない。このジグザグにつけられた道も元はただの踏み跡だったのかもしれないが、丸太のガイドがついているため踏み外すこともない。何度も折り返すと頂上に到着する。
 頂上は木々の中にあるので正面以外の眺望は利かない。が、塚の高さは10メートル程度あり、垣間見える眺めは決して悪くない。平坦な頂上には三つの石祠と石碑が並び、向かって右端の石碑には大日如来が線刻されている。中央の石祠には「仙元大菩薩」とあり、左の壊れた石祠の後につくられたものではないかと考えられる。この壊れた祠の基部には「金ニ朱中村平之丞」などと出した費用と出資者の名前が並ぶ。このように私が石造物を見ている間にも(三が日のせいか)地元の人が登ってくる。私がいた小一時間の間に五人くらいは見た。
 この塚に胎内は見当たらない。が、塚の裾野向かって右に大きな鉄板が寝かせてあり、その脇に「昭和五十三年に塚を修築した際に折れた千手観音が出てきたので祀った」旨の銘を持つ真新しい観音像があったので、この鉄板の下に胎内があり、おそらく安全対策か何かで封じられたのだろう。
 清瀬駅への帰り道、途中のけやき通りにある上清戸一丁目の交差点を右へ(駅に向かっては左へ)折れて中清戸にある日枝神社に立ち寄った。交差点から意外に長く歩いたような気がしたけれど、この神社は地元の鎮守で狭い境内は参拝客で混雑していた。日枝神社の隣に水天宮があり、これにも行列ができていた。おそらく安産の信仰だろう。さらにその隣には明治ごろに新しい御嶽塚がある。そして、その前の参道の、石燈籠が数基並ぶ中に先ほども書いた丸吉の燈籠が一つあった。他の燈籠が竿に山王大権現とある中、これは「日枝神社」とあるので、この燈籠の造立は明治以後と推測できる。更に御嶽塚の前に「富士山太々講記念碑」とある。年代が刻んであったか否か、残念ながら記録してないが上の話から考えると燈籠の後ということになる。

清瀬市の中里富士斜前景 塚前の掲示板 丸嘉の富士太々講碑(サムネールは部分)
清瀬市の中里富士斜前景 塚前の掲示板 丸嘉の富士太々講碑(サムネールは部分)
清瀬中里富士の丸吉による奉納碑の猿(向かって左・サムネールは部分)。立って拝んでいる猿の線彫がわかりますか? 裾野から頂上を見る。手前の石碑がもう片方の猿です。 頂上全景・右端のものは蝋燭立てらしい。
清瀬中里の丸吉による奉納碑の猿(向かって左・サムネールは部分)。立って拝んでいる猿の線彫がわかりますか? 裾野から頂上を見る。手前の石碑がもう片方の猿です。 頂上全景・右端のものは蝋燭立てらしい。
中清戸日枝神社の丸吉講燈籠。笠の講紋に注目。サムネールは部分。 中清戸日枝神社の賑わう様子。サムネールは部分。
中清戸日枝神社の丸吉講燈籠。笠の講紋に注目。サムネールは部分。 中清戸日枝神社の賑わう様子。サムネールは部分。

▼練馬区の中里富士

 対するこちらは練馬区大泉町にある。中里というのは当地の字名だという。この塚にたどり着くのは清瀬の中里富士より困難である。あるサイトには「西武池袋線「保谷駅」南口から練馬区シャトルバス光が丘駅行き「大泉町一丁目」バス停徒歩3分」か「西武池袋線「大泉学園駅」北口から西武バス成増行き「越後山」バス停徒歩7分」と挙げているが、保谷駅からのバスも大泉学園駅からのバスも本数が少なく(一時間に一~三本)とてもお勧めできない。行くのなら、石神井公園駅から成増駅南口へ行くバス(循環以外で土支田二丁目に行くのならそれ以外でも可)か、大江戸線光が丘駅から出る土支田を循環するバスに乗るべきである。前者なら一時間に十本程度、後者なら一時間に三本程度の本数がある。共に「土支田二丁目」バス停で降りる。ここまでの所要時間は前者なら十五分弱、後者なら十分かからない(光が丘駅から行くルートの最大の強みはこの所要時間の短さである)。
 土支田通り交差点から北西への道へ入って、十分ほど道なりに歩く。右へ曲がりつつ坂道を下り別荘橋という小さい橋を渡ると八坂神社の参道に行く脇道がある。ちなみにここまで大泉学園駅から歩くと五十分程度かかる。塚は神社の鳥居から右へ分かれる道の先に神社社殿と並ぶようにして立っている。塚の手前には鳥居が立っているが、今歩いている道の上になく、民家に面した形で立つ。おそらく古くはこの民家を突っ切るような位置に塚への道があったのではないかと思う。
 この塚も十メートル程度あり、大きな塚である。社殿と並んでもその屋根の高さに比肩する。こちらは清瀬の方と違って囲む木々もなく開放感がある。立て札があり、一つは練馬区教育委員会のもの、もう一つは現地のものであって、それには「中里富士あそび場」とある。確かに、塚の周囲にブランコや滑り台があって、子供が遊ぶようにできている。私がいたときも、小さい子供を連れた老人が子供を連れて塚に登っていて、子供たちは探検だとばかりにはしゃいでいた。また、塚の裏手は住宅街となっていて一戸建て住宅が真新しそうに奥へ向かって並んでいる。実際塚の真裏はまだ入居者のいない新築一戸建てで頂上からその二階が丸見えになっていた。
 この塚は『A』によれば、清瀬の方でも出てきた丸吉講によるものということである。明治六年(1873)の築造とされるが、明治七年の銘をもつ石造物が多い。練馬区の掲示板によれば「文政五年の石碑がある」ということだったが、私には見つけられなかった。また石碑には嘉永や慶応のものもあり、『A』で言うようにこの塚以前にも浅間祠だけのような形で祀られていたのかもしれない。今、講の活動はないようだが、現在も八月一日に山開きをすると掲示板にある。また、清瀬の塚にあった猿の線刻をあしらった石碑が登り口の両脇に立っている。このタイプの碑は丸吉講の所産として他の塚にもあるのだろうか?こちらの碑は皇紀2534年(明治七年=1874)とあるから、清瀬の方の明治六年に年代も近い。
 塚にある石造物は清瀬のものに比べて多彩である。烏帽子岩、小御岳はもとより、道祖神などというものもある。道祖神が富士山中にあったという話は聞いた事がないが、時期的に地元の信仰でもないのではないかと思う。ここは後考を待ちたい。ジグザクに走る道はゴツゴツした岩場を行くものであり、いかにも富士塚を登っている気分になるが、びっしりと生えている笹や躑躅の植え込みがうっとおしく、ややもすると枝や葉で眼を害しそうである。ただ、この塚は向かって右手にブロックを階段状に埋め込んでありそこから登るか、または裏手から登ると全く楽である。あくまでも正面の見栄えが重視されているようだ。
 頂上は平たく、振り返ると大きな展望を得られる。中央に石祠が立ち、馬背山や駒ケ岳といった富士山頂を模した石碑が周りにある。なぜか釈迦が嶽の石碑が山頂から下った中腹にあるのだが、改修でもしたときに動いたものか。石祠は左面に何か人名の銘があるのだが、詳しくは読み取れなかった。祠自体は塚より古いものではないかと思う。降りるには裏手から行くとすぐに塚の裾をまく道に出る。胎内を模した小さい空洞が塚の裾にあるが、格子が降りていて入れない。
 八坂神社の社殿をはさんで近代初期の御嶽塚があるものの、こちらは全く大きくない。雰囲気としては陽の富士塚、陰の八坂神社という趣である。というのも八坂神社は木に囲まれており、昼なのに境内には霜柱が残るほど陽が当たらない。帰りはまたバスに乗ることになるが、土支田二丁目に来る本数が多く、さほど待つことはない。

練馬区の中里富士前景。普通に撮ると大きさが出ないので鳥居をくぐらせてみる。 塚前の掲示板 登り口の歌碑。小猿が右を向いて拝んでいますがわかりますか?サムネールは猿を拡大した別の写真。
練馬区の中里富士前景。普通に撮ると大きさが出ないので鳥居をくぐらせてみる。 塚前の掲示板 登り口の歌碑。小猿が右を向いて拝んでいますがわかりますか?サムネールは猿を拡大した別の写真。
頂上からの展望(サムネールは部分) 頂上。実際はもっと広いのですが、引ききれません。後ろに宅地が広がっています。 八坂神社社殿と塚。境内から撮影。中間に滑り台があります。両者の高さはほぼ同じ。
頂上からの展望(サムネールは部分) 頂上。実際はもっと広いのですが、引ききれません。後ろに宅地が広がっています。 八坂神社社殿と塚。境内から撮影。中間に滑り台があります。両者の高さはほぼ同じ。

▼まとめ・この二つを呼び分けよう

 以上、二つの中里富士を探訪した。どちらも都心から外れた武蔵野にあって規模が大きく、また行こうと思えば両者を西武池袋線一本で巡ることもできる。しかし、それ故に大変紛らわしい。両者とも丸吉講が同時期に関与していることもある。この丸吉講というのは明治期に練馬・清瀬を含めた地域(おそらく隣接する埼玉県も含まれる)で活動した講ということで、今後の課題となるだろう。
 それはともかく、この二つが両方とも「中里富士」では判別がつきにくい。そこで、『A』にしたがって、八坂神社を「中里の天王様」と呼んできた大泉の地元はともかく、せめて我々は練馬区の方を「大泉富士」とのみ呼ぶことを提唱したい。なぜかというと、清瀬の中里は現在でも公的に生きている地名だが、練馬の中里は単なる字として実際の地図上では機能していない。だから現行の表示を冠したいと思う。この提案は富士塚のWebpageを持つ藤井=ふじ氏matsumo氏もメンバーになっているFYAMAP「富士山の部屋」でもなされた(#281)。結果としてmatsumo氏はさっそく表記を変えられたとのことで、提案した本人としては感謝する次第である。が、藤井氏によってまだ他にも同名複数の富士塚があることが言われ、今後に課題を残す形になった。こうした塚の名前は主としてそれを集める立場によってつけられたものである。しかし、それら調査の機会をまたぐ統一的なコンセンサスがあったわけではなく、富士塚の呼称の相違もそうした事態の産物である。私の提言自体は私が勝手に言っているものに過ぎないが、個々の富士塚の名称について考える機会をも提供できれば望外の喜びとなろう。