横浜市富士塚めぐり(2005/06/01)

▼日照院さんからの誘い

 日照院さんは川崎生まれの人である。何でも小さい頃から民俗に興味を持っていたそうで、大学に進んでも民俗学を専攻していたという。そんな日照院さんとは、彼が神奈川区菅田町熊野堂にある浅間神社所蔵の拝み箪笥についてBBSに書き込みをして以来のお付き合いである。日照院さんは神奈川県地方の富士講や富士塚を見る機会があると私を誘ってくれる。今回も、6月1日に横浜方面の山開きを巡ろうということでお誘いがあったので乗ってみることにした。今回は地元である池辺の人がクルマを出してくださるということだった。この人もネットで知り合ったという。それがH氏である。以下、巡った富士塚を列挙していくのであるが、群馬県の時と同じく、各項目のところにタイトルにマピオンのマップをリンクさせることにする。中央のレチクルが塚の所在地である。

●横浜市都筑区池辺町(池辺元富士)

 私と日照院さんは横浜市営地下鉄の仲町台駅に8時に待ち合わせることにした。なんでも、ここの山開きは富士講が行なうものではなく、土地を所有する福聚院という寺院が8時30分から法要するのだという。バスで星の台というところまで行き、降りて向かうと太鼓の音が聞こえてくる。塚近くに稲荷社があり、そこから太鼓を借りて塚の上でお囃子するのだという。遅れたか?!と焦る二人が塚まで急ぐと、お囃子が終わって法要に入るところだった。塚の上にはビニールシートと茣蓙が敷かれており登った口に「富士浅間大菩薩 一心講社/大正拾弐年六月一日」と墨書された幟幡が立っていた。靴を脱いで塚頂上へ上がると石祠の前に案が置かれ供物と玉串が並べてある。広くはない塚上の中央に僧侶が一人立ち、周りを氏子が取り囲んでいる。後で聞いたところによると、ここを含めた周辺の社の別当を福聚院がしておりこの塚も福聚院の所有ではあるが、この塚の氏子に福聚院の檀家はいないということだった(と住職は仰っていたのであるが、H氏曰くこの法要にいた人の中に福聚院の檀家がいたとのことである)。H氏によれば、もとは更に10m程高くなだらかだったそうであるが、70年代に低くして形を整え塚の裾から周囲を現在のような畑地にしたということである。これが池辺にもう一つある富士塚と比べて「元富士」と呼ばれていても、面目が新しく見える理由である。
 法要の式次第は写真に示したとおりである。次第を撮影するのに福聚院の住職さんは快く応じてくださった。感謝したい。法要は心経読んで本尊勧請して祭文を読み、代表者で玉串を奉奠して心経で〆るという流れで行なわれた。祭文は平成になって先代住職(今日の導師は父を継いで住職になったばかりだという)が書いたもので、「時代時代に合わせて作り直していく」ということだった。法要が終わり住職が法話を一くさりしたあと、皆で円座になり手料理とお神酒で直会である。晴天の下なので眺めはいいもののじりじりと暑い。直会は11時ごろまで続くというが、H氏と合流した我々三人はその場を離れた。

池辺元富士全景 直会の様子。供物を載せた案が見える 次第。拡大写真はやや大きめに
池辺元富士全景 直会の様子 次第。拡大写真はやや大きめに

●横浜市都筑区池辺町(池辺新富士)

 こちらは「新」と銘打っているもののかなり地味な風情である。写真については2004年に訪れたときのものであることをお断りしておきたい。もともとこの裏手にある民家の土地だということである。切通した道の脇に登り口があり、短いけど急な道を登る。そもそも塚というより、道路から見る限りでは切通した崖そのものである。中学校の裏から伸びる道ができる以前はなだらかな裏山のピークでだったのではないかとと思う。頂上の背後には竹やぶが広がり鬱蒼としており、元富士とは対照的な薄暗さである。四等三角点と防災無線のスピーカー塔が頂上にある他、石碑の類は頂上の「浅間神社」碑以外に見られない。
 この碑も台座と塔身のバランスが不釣合いである。塔身に比べて異様に横長の台座を上から見ると、塔身が刺さっている幅より長い亀裂の跡が両脇に走っている。おそらくこの台座の上にあったのは幕末から近代に造られるようになった自然石タイプの碑だったに違いない。年号の類は全く見当たらないが、もと有ったであろう碑身に刻まれてあったと考えれば合点がいく。

池辺新富士。切通しの道から見上げる 新富士頂上 頂上の石碑(サムネールは部分)
池辺新富士。切通しの道から見上げる 新富士頂上 頂上の石碑(サムネールは部分)

●横浜市神奈川区菅田町熊野堂

 菅田町熊野堂にある富士塚は最勝寺という寺院の隣にある。実はここに来るまで、日照院さんとH氏(と私)は天学教と浜川講社という民間信仰(?)を知る人を訪ね歩いていたのだが、私には埒外の事のようなのでそのままついていくだけであった。後日日照院さんが言うには、浜川講社の先達は池辺新富士の先達も兼ねていたということである。天学教会は「川向の富士講の掛軸の一つに天学教会のものが混じっている」ということで、彼は「一応二つとも富士講だ」と主張するのであるが、前者はともかく後者まで富士講ということはないと思う。また、こうした本質的に富士信仰ではない宗教による「富士講」は改めて考えられる必要がある。
 菅田町熊野堂の富士塚には、これとは別に浅間社があった。塚は寺の向かって左にあるが、社は寺をはさんで反対の右にあったという。現在その浅間社はなく、さらにその隣にある須賀神社に熊野神社と共に合祀されている。この須賀社も新しいものであるが、日照院さんはそれ以前の浅間社(子供の頃?)を見ており、今ご神体となっている「富士浅間社」とある神木(自然木に神名の金属板を打ち付けたもの)の他に神像があった記憶があるという。後で大谷忠雄『神奈川の富士講』(神奈川県民俗シリーズ11、1974、[神奈川県教育委員会])を見ると(p.23)、彼が見たものは食行の立像らしいがともかく今ここには無い。ここには丸金講の拝み箪笥・ご三幅・マネキ・幟幡がある。拝み箪笥は傷みは激しいが文政4年(1821)の墨書があって古い。また、この拝み箪笥には取っ手に長柄を取り付けられるようになっており、担いで運ぶ事ができる。お身抜には「吉(花押)」とあるが、これだけでは筆者はわからない。更に経本の類があったと氏子の人が言うので、我々はそれを見た事があるという氏子総代のお宅まで行ってお願いしたものの、しばらく待って「出てこない」ということで諦めた。
 山開きということでこの日も須賀神社の祠堂を開け、酒や菓子類を並べて氏子が番をしていた。外には幟とマネキが掛けられていたが、ひときわ目立つ鮮やかな水色のマネキがあった。午前中に丸金講の先達が来て置いていったものだという。我々は東本郷町の浅間神社でもそのマネキを見ており、その先達を追いかける形になっていた。須賀神社の氏子によるとその先達はタクシーで七浅間参り(?)をしているらしく、H氏は鶴見川沿いに回っているのだろうとの意見であった。
 塚は自然の丘に石碑を配置したもので、登山口から高さおよそ10m程度か。『神奈川の富士講』では最勝寺の住職が寺子屋の教え子を動員して築かせたという伝承があるという。中腹に丸金講大先達官行金山の碑などが並び壮観である。頂上に配されるべき神名の碑(富士山頂のピークに合わせて神を配する)が合目石のように置かれているが、頂上はこれらを全て並べておけるほど広くはなく、故意に置いたものかもしれない。頂上から東方向へ向けて大きく展望が開けているが、かつては西方向へも開けていて富士山も見えたらしい。

富士塚全景 拝み箪笥。天板を広げたところ。取っ手の柄をいれる枠に注目 須賀・浅間・熊野社(サムネールは部分)
富士塚全景 拝み箪笥。天板を広げたところ。取っ手の柄をいれる枠に注目 須賀・浅間・熊野社(サムネールは部分)

●横浜市神奈川区菅田町中村

 ここは市営住宅をはじめとする住宅街の中にあり、富士塚は公園の一画になっている。字を富士塚というらしく、住宅地図を見ても周囲のアパートに「富士塚」と付けたものがある。公園の中から塚を囲んでいる鉄柵沿いに歩くと、向こうの通りに面した入り口に白いマネキがいくつも吊り下げられている。近寄ってよくみると「奉納富士浅間大菩薩」とあり、傍の幟に「富士浅間保存会」と奉納者の名前がある。厳密にマネキとは言いがたいが山開きの時に出す飾り物に違いない。一向は驚いて入り口に回ってみると、柵が開けられており中へ入る事ができた。
 塚の頂上にある石碑は「浅間大菩薩」とあるが、古いものではない。しかし参道にいくつか大日如来らしき石像や浅間祠があり、中に宝暦8年(1758)の銘を持つ「富士浅間(以下土中)」という石祠があった。富士講のものではないにせよそれ以前から浅間を祀っていたのだろう。
 塚を見ているとそこに保存会の人が来た。日照院さんを呼んで話を聞くと(私は日照院さんの友達で付き添い、日照院さんは郷土史に興味があって調べているという設定。いや後者は設定ではなくて事実だが)、16時から保存会で何か行事をするらしい。それまでまだ数時間あるので他のところを回ろうということになった。

富士塚全景。奥に公園が広がる 幟とマネキ(?) 塚の頂上
富士塚全景。奥に公園が広がる 幟とマネキ(?) 塚の頂上

●横浜市港北区小机町

 この富士塚は小机城址の西端にある。移動の車中から小高い丘を何度か見ていたが、それが小机城址でありその中に富士塚があるとは思わなかった。城跡の富士塚といえば松戸の金山神社を思い出すが、こちらは丸ごと市民の森として残されており規模も格段に大きい。第三京浜のガード下にクルマを止め、城址としては裏口にあたる急な石段を登る。登りきった左手に更に盛り上がってる丘がその塚である。塚の登り口に回り込むと小御岳神社の石碑が仰向けに寝ている。起こしてみても年号などはなく、おそらく台座が無くて危ないなどの理由で倒されたものか。頂上への道が巻き込むようについており、頂上には文久元年(1861)の「富士仙元大菩薩」碑が建つ。「(丸に青)講中」と側面にあって丸青講のものであることがわかる。『神奈川の富士講』によれば、傍にお仮屋なるものがあり幟を出して軸をかけるそうであるが(p.32)、記憶の限りそうした建物はなかったように思う。またそうした山開きの様子もなく、ひっそりと塚があるのみだった。

富士塚全景 頂上の石碑(サムネールは部分)
富士塚全景 頂上の石碑(サムネールは部分)

●横浜市緑区東本郷町

 実はここは富士塚ではない。『神奈川の富士講』によれば昭和45年に宅地造成のために壊されてしまったらしい。今はその塚にあった大日如来の石像を祀る神社があるのみだが、宅地の中とあって富士塚があった雰囲気など微塵も感じられない。高台の崖のカーブに沿って神社があり、狭い敷地へ下りるようにして入る。ここにも丸金講の真新しいマネキがかかっており、その先達が我々に先んじて訪れていたことがわかる。
 神社本殿は白塗りの建物で、日照院さんが扉をあけるとそこには高さ1m位(?)の大日如来が坐していた。一部欠けてはいるが立派なものである。この他「小御岳石尊大権現」碑と富士山頂の神名を刻んだ石が数個あり、これらも富士塚にあったものだろう。

神社を裏手から 本尊(ご神体?)の大日如来(サムネールは部分) 掛けられたばかりの新しいマネキ
神社を裏手から 本尊(ご神体?)の大日如来(サムネールは部分) 掛けられたばかりの新しいマネキ(サムネールは部分)

●横浜市保土ヶ谷区上菅田町

 最後の「富士塚」は日照院さん曰く「写真はあるがどこにあるかわからない」という代物である。その「写真」とは『神奈川の富士講』の口絵図版にあるもので、塚の写真というわけではなく屋内らしきところに祭壇とお身抜がかかっているものである。『神奈川の富士講』によれば「畑中にあり、浅間大神、小御岳の石碑がある」(p.31)ということだが、これ以上の手がかりが無い。上菅田町というのは「町」というには異様に広い地域で、かくして我々はその富士塚を探してクルマで上菅田町をくまなく走り回る事になった。
 しかし私はもともと寝不足でへろへろの上、長時間の車中で車酔いも激しかった(群馬県富士塚めぐり参照)。かくして私は地図を片手にあーだこーだと詮ずる日照院さんとそれを受けてクルマを走らせるH氏を脇に気を失ってしまった。・・・小一時間ほど経ったろうか、目を覚ましてみると依然として富士塚探しをしていた。H氏の提案で旧家を探してそこで聞いてみようということになり、日照院さんはある旧家が経営しているという商店に一人入っていった。帰ってくるとどうも情報を得られたらしく、クルマを降りてしばらく歩いてみるがそこは稲荷社だった。
 一行は失意のまま、日照院さんはお礼をいいにその商店に再び行ってみたが、その時彼が『神奈川の富士講』にその講の先達として名前が挙がっている鳥海半左衛門(大正末に91才で亡くなったとある)の名前を出してみたところ、商店主は名前に聞き覚えがあったらしくその子孫のお宅を教えてくれたそうである。手がかり発見!とばかりにその広大な敷地のお宅へ行ってみる。伺うと老いた奥さんが出てきて、確かにうちは富士講の講元をしていて今近くの会館に集まってその拝みをやっている、というではないか。ここでまだ生きている富士講に会うとは思えなかった我々一行はそのお宅に近い会館まで行ってみる。確かにそこでは人がいて、あわただしく何かを片付けているようだった。また日照院さんを盾に(?)その中に突撃して話をしてみる。すると、先ほど山開きの行事を終えてその後片付けをしているという事であった。荷物を運び出しては軽トラに積んでいるのでよく観察すると、天板の割れる小さな箱・・・拝み箪笥や掛軸が入っているらしきケースがある。あわただしい中、講元(さっきのお宅の人)を呼んでもらって話を聞く。この講では山開きと冬至拝みと年二回拝みを行なうらしい。冬至拝みを見ることができないものかと日照院さんは講元と名刺を交換する。
 もうこの場はおしまいなので最後に富士塚の場所を聞いて退散することにした。かつては畑の真ん中にあり目立っていたらしいのであるが、地主が土地を売ってしまいその宅地の一画に移したのだという。講員の一人にその人が帰るついでに案内してもらうことになり、宅地の中に入っていくと果たしてその塚はあった。宅地に入った路地のどんづまりにあり車道からも生垣に遮られて見えず、これでは全くわからないのも当然である。そこには『神奈川の富士講』通りに「(丸に金)富士浅間大神社」という石碑と小御嶽大神の碑がある。丸金講という名前はいまの講でも使われているらしい。
 さて、興奮覚めやらぬ我々であったが、既に16時を大きく回っており、中村の富士塚での行事を見るために戻るには遅すぎた。しかし、中村の会館で直会をやっているらしいとのことで日照院さんの案内で行ってみると、そこはにぎやかな宴会の最中であった。保存会の代表と先ほどの保存会の人を呼び出してちょっと話を聞いてみる。この集まりは富士講ではなく拝みなども全くしないそうだが、この会で富士塚を保存し後世に伝えていこうということであった。

塚全景。塚の後ろが車道で両脇が民家 本尊(ご神体?)の大日如来(サムネールは部分) 掛けられたばかりの新しいマネキ
塚全景。塚の後ろが車道で両脇が民家 「富士浅間大神社」碑(サムネールは部分) 「小御嶽大神」碑。こちらの方が後でしかも浅間碑より大きい(サムネールは部分)

▼おわりに

 実は日照院さんと横浜の富士塚を見に行くのはこれで二度目である。この時はちょうど一年前の6月半ばで熊野堂須賀神社の例祭ということで見学にいったものだった。熊野堂の富士塚の遺物の写真はその時に撮影したものである。
 横浜はおろか、神奈川県そのものに土地勘が全く無い私には、前回も今回もどこをどう動いているのかさえよくわからない状態だったが、最後にまだ生きている富士講を見ることができたのは収穫だった。この先は日照院さんが観察していくことだろう。
 私は神奈川や群馬といった東京近郊での山開きが旧暦の6月1日通りであることについて、「もはや死滅した講が多くて実際の山開き(富士山では7月1日)に合わせる必要がないのだろう」と考えた。東京でも山開きといえば新暦の7月である。しかし、この理由だけでは今一つ説得力が無いように思う。今後とも考えていく必要があるだろう。
 最後に、今回の山開きに誘ってくださった日照院さんと丸一日ドライバーを務めてくださったH氏に心からお礼を述べたいと思う。一日ほぼ全く飲まず食わずで流石にしんどい行軍ではあったが、東京の東北の端に住む私にとってこれら横浜の富士塚をめぐる機会はなかなか無い。今後とも機会があればまた巡りたいものである。