松戸駅周辺の大きな富士塚、後編
▼城跡に立つ富士塚
東京都葛飾区の飯塚富士と千葉県松戸市小山の浅間神社を紹介した、前編からの続きである。
飯塚富士を見た後、私が本当にご案内したかったのはこれから申し上げる松戸市根本にある金山神社である。この塚は清水講という講が運営していて、その様子は第二十一講で紹介した松戸市立博物館の『富士講の人々』という記録映画に詳しい。私は当初この清水というのを地名と勘違いしていたのであるが、どうやらそうではないらしい。ではなぜ「清水」なのか現状では理解しかねるが、とにかくこの塚にある石造物には「清水講」という呼び名が氾濫している。講紋まで山に丸に「清水」と書いている。ただし、『富士講の人々』には「富士嶽教会」と染め抜いたマネギを持って登山する様子があり、こちらの方が正式の名称なのかもしれない。
山頂の「記念碑」とある石碑に、この講の由来が記されているので、以下にその全文を示す。ただし碑にある碑の世話人や講員の列名は省略した。
今ヲ距ル七十餘年當區關口了佐氏
講元ト爲リ冨士淺間神社参拜講社
ヲ設立シテ清水講ト名ツケ金山神
社ノ神域ニ其分社ヲ祀ル大正十三
年以来講元及ヒ先達幹事同氏ノ意
ヲ紹キテ專心講社ノ發展ヲ圖リ僅
少ノ講金利子ヲ貯蓄シ以テ神域ヲ
莊嚴ニシテ茲ニ記念碑ヲ建ツ是レ
敬神ノ念ヲ敦クシ神威ヲ顕揚セシ
ムル所以ニシテ洵ニ邦家ノ爲メ慶
賀ニ堪ヘス之ヲ勒シテ後昆ニ傳フ
昭和九年七月一日
昭和9年(1934)の七十年前とすれば元治元年であるが、塚の石造物を見る限り明治の末より遡れない。おそらくその頃まではこの神社には浅間祠の類があったという程度の状況だったのかもしれない。
もともと金山神社の歴史は古く、中世には根本城という城だった。城とはいえ、現在は大谷口歴史公園となっている小金城の支城だったようである。『日本城郭大系』第6巻(新人物往来社、1980)にその説明がある。
根本城は、下総台地が江戸川低地に面した西端部の突き出した台地上にある。
近年発見された史料によると、根本村の鎮守は高城下野守の建立したもので、これを天正年間(一五七三―九二)末に一族の高城播磨守が再興したとある。戦国時代の根本城主が、高城播磨守であったことはほぼ間違いないところである。
城は現在、金山神社境内地として一部が残り、大半は鉄道敷地や宅地化のため土取りされ、面影はない。ただ北側に腰郭的遺構がわずかながら残っている。また境内には妙見社の石宮が祀られている。
『日本城郭大系』第6巻(新人物往来社、1980)、p.119
ここでいう鉄道敷地とは、この神社を前後に挟む常磐線と新京成線である。この神社も小山の浅間神社と同じく線路の分岐にあり、正面参道のほぼ全てを常磐線が削り、背後も新京成線が走っている。
複雑な立地にあるこの神社に行くには、松戸駅からの直線距離が近いにもかかわらず回り込むことになる。二通りあって、一つは西口から県道5号線に出て北松戸方面へ行く方法、もう一つは松戸市役所わきの細い道を行き、新京成線の踏切を越えていく方法である。前者は旧参道の入り口に、後者は神社の麓にある裏口にたどり着く。旧参道の入り口、といっても跨線橋の階段に石灯籠が一対立っているだけである。その跨線橋を登って渡ると、反対の端は二つにわかれてまっすぐ神社の登り口中腹へ降りるスロープと下へ降りる階段とに分かれている。このように中腹で接岸しているのは、常磐線の路線が登り口の間際まで来ていて山の麓に跨線橋を降ろせなかったからだろうと思われる。一方神社裏手への道は、松戸市役所脇の道を行くが、「この先行き止まり」の標識があり、先も踏切が見えるだけなので途惑いがちになる。私は初め標識に惑わされ神社まで続いていると思わなかったので大きく迂回させられた。裏手から入ると鳥居の後ろに庚申塔が並んでいる。まっすぐ行くと跨線橋の下に着くが、線路に沿ってごく細い道となっており、時折人が通りかかる。
さて、塚に登ろう。登り口も二つあって、スロープから表を登るか、裏の登り口を行くかである。神社内部のマップは以下に描いた通りである。なお、この図は幅を他の写真と異なり800ピクセルにしたので、環境によっては横にはみ出ることをお断りしておく。
金山神社の模式図。字と絵が汚いのはほっといてください。 | 金山神社旧参道からの遠景。跨線橋の向こうに社殿が。 | 金山神社社殿。塚は向かって右手にあります。 |
跨線橋を渡って正面から入ると、すぐ社殿の前に着く。ここも小山の浅間神社と同じく鬱蒼としているが、大きく違うのは山頂まで一直線ではなく巻き込んで登っていくところである。そして、その道のあちこちに富士登山や講の周年を記念する碑が数基ほど固まって林立する。碑の年代は麓に下がるほど新しいらしく、昭和末期の黒御影石でできたものがその最新層だろう。社殿から山頂へは石段が敷かれている。その欄干は朱で寄進者の名前が刻まれ、端の柱には「清水講」とある。山頂までの距離は短いがその分、急で初めは左に巻いて登る。まいた肩に不動明王の石像が立っている。富士塚はいうまでもなく富士山を模したものであるが、富士山の五合目以下で不動明王を祀るという場所は寡聞にして聞かない。有名なところでは亀岩不動明王だがこれは8合目を過ぎてからだから関係ない。地元の信仰か、それとも何か理由があったものか。
その不動明王を過ぎると、ややなだらかな道となる。方向としては社殿を左手下に見て登る。途中で山頂への道と小御嶽大神への道とに分岐する。小御嶽大神は道の脇の一画に祀られている。白木の鳥居をくぐると石碑が立っているが、年代などは残念ながら記されていない。ここにも周囲に記念碑が林立している。小御嶽大神を過ぎると山の裏手に出る。この道は山頂へ続くもう一本の道である。下へは、大きく山の裏手を巻いて下り、昭和の中ごろに作られた(確か昭和三十五年とあったと覚えている)三峰神社に出て、社殿の裏手から裏の鳥居に降りる道と合流する。
富士登山記念碑。このように林立している様があちこちにある。 | 社殿から山頂を望む。ちなみに写っている屋根は納札所。そして段ボールの中には・・・。 | 社殿からすこし登ったところ。石段の欄干に注目。 |
不動明王像。サムネールは部分のみ。 | 小御嶽大神。ここにも記念碑が周囲に立つ。 | 三峰神社。暗いのでこれでもレタッチしてます。 |
いよいよ山頂へ向かおう。一応、この道にも合目石があり、小御嶽との分岐を過ぎると八合目―九合目と続く。ここでは左に巻いて登る格好となる。山頂はぽっかりと広く、小御嶽大神と同じく白木の鳥居の一画に「冨士嶽淺間大神」の碑が立つ。この碑には「中教正藤原朝臣俊學謹書」とあり、おそらくこれは明治に北口本宮宮司だった狛俊学のことである。裏には設立者として名の挙がった関口了佐を清水講幹事として以下大先達川井岩次郎を初めとする講の列名があり、「明治四十一申年七月一日建之」と年代を明らかにする。見た限り、富士塚全体でおそらくこの碑がもっとも古く、これ以前の講がどの程度のものだったかわからないと初めに書いたのもここからの推測である。この碑の両脇に記念碑が林立しており、その年代はいずれも明治・大正・昭和初期と、下や小御嶽で見た記念碑より格段に古い。その向かって右端には冒頭に銘を紹介した「記念碑」もある。
それらの碑に向かって納札所の屋根がある。なぜか段ボールに囲まれていて、ふと覗き込むと中には段ボールに沿ってペットボトルが並べられていて、毛布が敷かれている。そして、その中央は人が寝ている形に盛り上がっており・・・。心胆寒からしむる嫌な想像が湧いてくるのをとどめ、早々にこの塚を降りることにしよう。なお、ここからは展望がほとんどきかない。松戸駅方面を眺めてもわずかにそのホームの端が見える程度である。
山頂。鳥居の奥に浅間大神があり、多くの記念碑が連なる。 | 冨士嶽淺間大神碑。明治41年(1908)、狛俊学の書。 | 淺間大神碑の裏面。サムネールは部分。 |
山頂からの遠景。松戸駅の階段がわかりますか? | 林立する記念碑。浅間大神向かって右手。 | 「記念碑」。他の記念碑と違い清水講の由来を記す。サムネールは部分。 |
帰りは裏手の道を行く。ぐるっと左へ巻き込んで降りるが、松戸の駅前にあるとは思えないような山道である。小御嶽への分岐を過ぎなおも下ると三峰神社があり、神社裏口から社殿裏に行く道と合流する。裏口に下りると庚申塔が数基脇に立つ鳥居がある。その前を右手に行けば新京成線の踏切を渡って松戸市役所の脇に出る。
裏口からの道。写真ではわかりにくいけど、左から山頂への分岐がある。 | 神社裏口。鳥居向かいの角から撮影。 | 新京成線の踏切から見たところ。サムネールは部分。 |
▼まとめ
松戸駅の駅前は繁華街である。市役所にも近く街は栄えている。しかし、少しでも駅を離れればそこには小さい山が点在し、ある時は戦国の要害となり、ある時は富士講や浅間信仰が行われていたのである。小山の浅間神社でも根本の金山神社でもそこの石碑にはおびただしい人名を見ることができた。そういえば前者ではその列名の人たちは松戸宿を初めとして多くの地域にわたっていたが、後者では清水講以外の人たちの名前は見なかった。町の隣にあって同じように見える浅間信仰でも内実はかなり違うのかもしれない。これら豊富な金石文や当事者たちを対象にした研究は寡聞にして聞かないので、調査の余地は多分にあると考えてよい。この東京と隣接した地域の富士講研究が進められることを願いたい。
ところで、爾後コートーさんからメールをいただいた。そこにはこうあった。
無理をお願いした松戸の富士塚も大変興味深かかったです。あそこ小山浅間神社は飯塚の富士講の七富士廻りのコースだったんですね!帰宅した後、気付き、とても感慨深かったです。
「は?」と思い、つまらながって読み飛ばしていた文化財めぐりのパンフレットを見たら、このように書いてある(太字は大谷による)。
飯塚の富士講は毎月行う月次(つきなみ)の行事と、冨士神社の祭礼である7月1日に行われる七冨士参りの行事からなっています。・・・(中略)・・・
七冨士参りは、近隣の富士塚を七ヶ所参拝し、功徳を得ようという行事です。飯塚では草加市瀬崎の富士浅間神社、八潮市大瀬の浅間神社、三郷市戸ヶ崎の香取神社、松戸市小山の浅間神社、江戸川区上篠崎町の浅間神社、葛飾区水元の水元神社を参拝し、最後に飯塚の冨士神社に戻ってきます。
・・・一本とられた。いつかまた富士塚を見に行きましょう、コートーさん。