松伏町の輿樗(きやり)地蔵尊(一)
▼私が富士講の研究を始めた理由
「なぜ富士講なんてもの(の研究)を始めたのか?」と聞かれることがある。特に仏教学関係の人たちから聞かれることだが、確かに無理もないと思う。
私が学部一年の頃だからもう丸十年も前のこと、私の通っていた大学は埼玉県北葛飾郡松伏町というところに分校があり、当時一年生だけが通うことになっていた。その大学は僧侶養成の大学でもあったので、そういう目的の学生たちはその分校の寮で一年を過ごした。「まつぶしまち」という名をその町近隣の人間以外で知るものはたぶんそう多くない。松伏町は埼玉県越谷市・春日部市・庄和町・吉川市(当時は吉川町だった)・千葉県野田市に囲まれた、人口三万足らず、面積にして十六平方キロメートル程度の小さい町で、江戸川河口から四十キロ程度遡ったところにある。電車も通らない陸の孤島で、今でも交通機関はさびれたバスのみである。現在は町中央部の宅地造成が進み、こぎれいな住宅地と化しているが、私が学部生をしていたころはそこですら一面田んぼで、数キロ先まで見通すことができたものである。
そんな町に通学していた私と当時友人だったC君はひょんなことからその教育委員会のアルバイトをすることになった。それは「単独で、町史編さんの資料用として町の石造物を調査せよ」というものである。今にして思えば当時の担当者も思い切ったことをしたものだと思うが、仏教学の学生だからといって十八の若造に何か経験があるわけでもなく一から試行錯誤の繰り返しだった。
松伏町は南北に長く、北三分の一は下総国で残りは武蔵国という歴史を持っている。詳しくは省くがそれは川の流路の変遷によるものだ。結局、調査の拠点となっていた旧金杉小学校という廃校跡の関係もあって、石造物調査はその下総国の部分から手をつけることになった。途中C君と私は仲が悪くなり(理由は何であったか、今となっては思い出せない)二年生の秋以降、私一人の調査となった。とはいえ、東京の実家から通う身なので一人になると夏休みと春休みに集中して入ることにしていた。交通費だけで往復1500円くらいかかるので、すでに東京の本校舎に通う身としては長い休みでもないと連続して通うことなど望めそうもない。だから年によっては正月元旦からこの仕事を一人でしていたこともあった。
仕事の内容としては、自転車で決められた地域を隈なく走って石造物を探し発見したら、それが庭の中にあろうと寺社の中にあろうと持ち主と交渉して調査を開始する。聞き取りも含めて現物の寸法や銘文などをノートに記録して持ち帰り、それをカードにまとめるのがルーチンであった。決められた地域とは下総国地域を構成する魚沼・築比地・金杉の三つの大字で、私は各地域の端から順繰りに攻めていくことにした。写真の腕は結局上達せずじまいだったが、それでも写真や拓本は気が遠くなるほど撮った。石祠の形を見ただけでだいたいの年代がわかるようになった、庚申塔の変遷を身を以て知った、聞き取りに慣れた、崩し字が多少わかるようになった、農村の習俗を直に見ることができた等等・・・、私はさまざまな実践をここで学んだ。それはどれも貴重なものだと今でも思っている。実は私は松伏町だけでなく、事あるごとに野田市や庄和町にも足を伸ばした。どう見てもサボっているようにしか見えないが、石造物の調査はその地域だけで決して完結しない。周囲の地域の様子を見て初めて全体がおぼろに浮かんでくるのだ。例えば十三仏塔とよばれる十三仏をある様式(大日如来を丸彫りにして頂上に置き、他の十二仏を角柱の四面に浮き彫りにする)に配置した特殊な石塔がある。松伏町では金杉に一基しかないが、野田に行くともっと立派な同様式のものがいくつか散見される。しかし、松伏町の武蔵国地域には見当たらない。下総国地域の場合、石工は野田のものだった。大字松伏にも石工はいたが、国境を挟むよりは文化的な距離のようなものが近かったからであろう。また明治の野田には名工杉崎弥八がいた。彼の優れた作品は松伏町のこの地域にもいくつかある。
このアルバイトは結局五百件あまりの石造物の調査となって終った。とはいえ、十六平方キロの三分の一しかない下総国分の五百件だから、密度は相当に濃い。各家に祀られる石造の屋敷神は片っ端から調べられたはずである。しかし、流石に武蔵国分まで行うにはあまりにもリソースがなさすぎた。この段階で私は浪人を経て別の大学の院生になっていた。結局カードをワープロ専用機で原稿に起こし、解説を板碑と庚申塔と供養塔の分だけ書いて(構想として他に石祠や寺社の什物などの項目があったが、書いた分だけで優に40000字は超えていた)、教育委員会の担当者に渡し、関係が切れた。それが2001年4月、つまり十年以上かかったことになる(ただし最後の数年はほとんど原稿に何もせず寝かした状態になっていた)。担当者は四代目になっていた。これからどう加工されるか、それは私の関与するところではない。が、おそらく調査の全てが公開されることはないと思う。それをするには町のリソースがあまりにも乏しすぎるからだ。悲願であった報告書を出すだけの予算は、私が関わっていた間ついに付くことがなかったし、この先も付くとは考えにくい。
前置きが長くなりすぎた。私が富士講に関わるきっかけとなったのは、魚沼という大字の妙音寺という廃寺(現在は関農民センターという集会所が作られている)にある、奇妙な石造物であった。写真をみていただければよいが、お地蔵さんの線刻像なのはいいとして、その名号からして読めない。「輿樗」であることはなんとか見当がついたが、「よちょ」とは何であろうか?お地蔵さんも不動明王の二童子を連れた三尊形式で、まず見慣れなかった。
拓本をとって当時の担当者(初代)に見せたところ、「俺、この山がすごく気になるな」と言う。地蔵さんの後ろに日月と山がかたどられている。今にして思えば彼のそれは慧眼だった。結局万策尽きた私は(学部生の頃の話だから仕方ないのであるが、その頃の私はとにかく幼稚で未熟であった。今でもそうなのかもしれないが)、「駿州駿東郡御厨古澤通り上小林邨写」という銘を頼りに御殿場市教育委員会に写真と拓本を送って教えを請うた。でっかい拓本をいきなり送りつけられた御殿場市教委はさぞ驚いたことだろう。
回答が返ってきたのは数ヶ月くらい後だったと思う。この地蔵は御殿場市上小林にある東岳院という臨済宗の尼寺で祀られている地蔵のことで、「輿樗」と書いて「きやり(木遣り)」と訓み、富士講の道者によって信仰されている・・・、ということであった。担当者が指摘した山形は富士山だったのだ。それから私は富士講について調べるようになった。調べてみればみるほど面白かった。特に例の「ДЁ大Ж妙王Ж躰拾坊光Ё心」(わからない人は受付参照!)をはじめとする、聖なる言語体系は真言の世界にもない異質さがあってますます興味が湧いた。当時の私はオカルトのようなものを好み、梵字を練習しては種子曼荼羅をどこでも落書きするような子供だった。
そして学部三年生も後半を過ぎ、卒業論文として選択したテーマが『富士講にみる江戸庶民の仏教観』だった。この論文は人生最初の論文であるにもかかわらず、私の人生で一番しんどい論文だったと思う。400字詰めの原稿用紙に460枚も手書きで書いたのは後にも先にもこれきりである。この論文は私に半月にわたって家出をさせ、就職活動も一切棒に振らしめた(とはいえ、我々の世代は氷河期に入りかけていた頃であり、仏教学部ということもあって最初から活動する気にもなれなかった。この大学のこの学部に入った以上、在家のものは就職する希望を持ってはいけなかったのだ)代物である。しかし、これを書き終え、提出したときの達成感は、それまで中途半端で何一つとしてやり遂げたことのない私にとって大きな自信となった。やればできるのである。その結果として今の私がいるわけだが、この石造物がなければ今ごろどのような人生を歩いているか見当もつかない。しかし、執筆している現段階で30歳近いにもかかわらず無職であることを思うと、これでよかったのかどうかは何ともいえない。大学の同期の結婚披露宴の招待状など頂戴した日には(これを執筆しているのは2001年5月であるが二週間後にその予定がある)、思わず人生をやり直したい気分にさせられる。
書いているうちに、一枚のページでは表示にストレスがたまるほど内容が肥大化してしまった。よって数回に分割してお話を続けていきたい。続きはこちら。
旧金杉小跡・二階は体育館 | 新開橋から西魚沼を望む |