trAHは伝統的にタラークと発音し、虚空蔵菩薩の種子(梵字一字で尊格を表したもの)である。これで地蔵・虚空蔵として対になる。以下は地蔵菩薩の真言であって、数字の順に読めば「ha ha ha vismaye」となり、この前後にoMとsvAhAの真言用の定型句をつければ「oM ha ha ha vismaye svAhA」となり、「おん かかか びさんまえい そわか」などと訓む。haを真言宗の教学らしくhetu(因)に結びつけてもいいが、笑い声の擬音とし(感情をあらわした擬音や無意味な掛け声・音が真言に使われることは多い)vismayeを「珍しいものよ」という呼びかけの意味に取るのが一般的なところである。例えば『梵字大鑑』では地蔵真言を「オーン。ハ、ハ、ハ。稀有なるものよ。スヴァーハー」と訳している(注1)。vismayeは「驚き、驚異」を意味する男性名詞vismayaの単数呼格としているのであるが、男性名詞で呼格では-eになることなどあり得ない(-eで呼格は単数の女性名詞である)。しかし、男性名詞のもの(ここでは地蔵)に女性名詞の呼びかけの形で陀羅尼を作るという現代の仏教学でも説明のつかない現象は他にもあるので、これもそのようなものであろう。もっと文法的に無難になるよう考えると、単数於格(「驚きに対して」、「驚きの間に」)でvismayeとなるが、これでは真言にならない。
話が若干それたけれど、こちらの地蔵の光背では梵字の表現が不正確である。おそらく彫ったものがよく梵字を知らなかったか、模写の元絵の梵字が不明瞭であったか、あるいはその両方であろう。梵字全体が不恰好で、viもyeも子音のパーツ(古典的な悉曇では切継という)がなくva或いはyaとなっているし、smaもとてもそのようには見えない。
オリジナルには四天王の脇侍がいたが(これらも焼失)、この線刻では二童子を随えて海上の岩座に坐っている。なお、京博の模写では閻魔天と地天(?)だったり根津では四天王だったり、模写ごとに脇侍が変わるらしい。この二童子は掌善と掌悪とよばれるが、実はこの二人、不動明王の制多迦と矜迦羅の二童子そのものである。
延命地蔵の典拠となる『延命地蔵菩薩経』には地蔵は不動であると説かれている。地蔵=不動明王であれば、不動明王は大日如来の教令輪身(お怒りモード。大魔神みたいなものですな)だから、地蔵=大日如来となる。ともかく、この二童子の姿は不動明王のそれと同じくなっている。この場合、向かって右の蓮華を持っているのが掌善童子=矜迦羅童子で、左の棒を持っている(経では金剛杵)童子が掌悪童子=制多迦童子である。こちらの写真でも、よく見れば掌善がちんまり立っているのに対し、掌悪が大股に立って威圧的なのが(申し訳ないが、写真では足が切れてしまった)わかると思う。
今書いたように、『延命地蔵菩薩経』という経典が、延命地蔵とよばれる様式の典拠である。この経典は鎌倉初期か平安末期くらいに日本で成立した偽経(インドで成立したものを真経といい、それ以外を偽経という。お経は仏陀の口述筆記の形をとるので、インド人の釈尊以外が説けばそれは偽とされる。もっとも仏教学ではもっと複雑に考える)とされる。これは地蔵研究の基礎文献と化している眞鍋廣濟の『地蔵菩薩の研究』で指摘されている(注2)ことだが、最近の木村清孝による研究でも「本経は、本覚思想の発展の流れに乗り、おそらく鎌倉初期の頃、密教的立場からさまざまの菩薩信仰を地蔵信仰に集約しようとする意図をもって作成されたものといえるのではないだろうか」(注3)と結論されている。本覚思想云々はともかくとして(私にはどうもこの論考自体が散漫で決定的な説得力を欠いているような気がする)、経の成立をこの時期に持ってくるのは妥当であろう。なお、この経はどこにも入蔵していない。国訳一切経(注4)の和訳に使われた底本も龍谷大学所蔵のものとあるから、流布している折本の類だろう。となると
大正新脩大蔵経テキストデータベース(SAT)はまずこの経のテキスト化をしないだろうから、文字と労力の問題さえクリアできれば彼らに先駆けてやってみるのもいいかもしれない。
問題はなぜ輿樗地蔵が延命地蔵、しかも壬生地蔵でなければならないのかということである。基本的に、京都にある壬生寺や壬生地蔵と富士山の信仰との間には何らの関係も見出せない。逆に、富士講や富士信仰の関係で壬生地蔵を見たこともない。後で書くことになるが、輿樗地蔵の本体は秘仏となっている自然石であって、壬生地蔵(或いはその写し)が東岳院に祀られているということもない。この点は最後まで謎として残るだろう。もっとも「単に造形的にかっこいいから」とか「たまたま手元に壬生地蔵の写しがあったからそれに似せた」などといった素朴な理由も考え得る。
地蔵の中でもとりわけ延命地蔵である点は何か。後ほどお目にかけるであろう東岳院の輿樗地蔵の縁起に、既に「富士山出現延命子安地蔵尊」と表記されているので松伏のものに始まったことではない。延命地蔵である理由は、経に説かれるその特性にあるだろう。経にはこのようにある。
亦是菩薩得十種福。一者女人泰産。二者身根具足。三者衆病悉除。四者壽命長遠。五者聰明智慧。六者財寶盈溢。七者衆人愛敬。八者穀米成熟。九者神明加護。十者證大菩提。(注5)
注目すべきはその第一、「女人泰産」であろう。女人安産はコノハナサクヤヒメの信仰にもある徳目で、神話にある、夫から身の貞潔を疑われた彼女がそれを証明すべく産屋に火を放ちその中で安産したというエピソードはあまりにも有名である。富士講の中でも安産に対する信仰があり、彼らが胎内めぐりをしたとき、使った蝋燭の燃え残りを持ち帰って、妊婦がお産するそのときに燈せば、それが燃え尽きるまでに安産できるという伝承を聞くことがある。このような富士信仰・富士講の中にある安産祈願に対する仏教的な答えが、只の地蔵ではなく延命地蔵を持ってくることだったのだろう。
実はこの石碑にも安産に対する信仰があった。私がこの石碑を撮影した2001年5月にはもうなくなっていたが、この石碑には覆屋があった。いつ撤去されたのかわからないが、今でも碑の後ろにその石柱と赤い屋根の残骸が転がっている。この屋根の下には常に赤い小旗が吊り下がっていて、それには年月日と「大願成就」と書かれていた。これは近隣の女性が安産を祈り、無事子供が生まれると男子の時は白(?)、女子の時は赤の旗に名前を書いて奉納する風習があったためである。私は赤い旗しか見たことがなかったので生まれた子の男女で旗の色があったのかどうかわからないが(男の子=白い旗はアルバイトで調査した時に得た聞書きである)、とにかく安産を祈願する信仰の対象となっていたことは確かである。現在は覆屋が無くなってしまい、代替のものも見当たらないので残念ながらこの風習は途絶えてしまったようである。
そもそも地蔵がこの地に立てられた当初から、この風習があったのかどうかは定かではない(ただし、後述するように似たような風習が御殿場にあるらしい)が、この碑の建立者は「女人講中」となっている。世話人たちこそ男性であるが、発願の主体は彼女たちである。地蔵の隣には如意輪観音を彫った十九夜供養塔が二つほど立っていて、ともに女性たちの列名が刻されている。この周辺では男性主体の庚申講に対して念仏講は女性主体であり、おそらくこの碑にある「女人講中」のメンバーもそれと同じだったに違いない。とすると、この地蔵の石碑が、当初から安産という女性特有の祈願のために立てられた可能性はとても高いと考えてよいであろう。しかし、そのように考えたとき、疑問が現れないわけではない。「富士講の建立した石造物ではないのではないか?」ということである。
結論から言うと、この石造物に富士講の痕跡を直接見つけることはできない。が、輿樗地蔵そのものは富士信仰以外に関わりようがない寺院である。なぜかといえば、この東岳院という寺院は須走口と御殿場市街に走る道の中間にあり、富士山に行く道のりで須走口を利用しない限り通過することはないような場所にある。それに、他に安産の神をということならコノハナサクヤヒメでもいいわけで、何か特別な理由がなければこの地蔵を信仰する理由はないであろう。この魚沼に誰か単独で(あるいは少数で)別の地にある富士講に入っていた人がいたか、それとも富士講に関係なく富士登山した人がいてそういう人(たち)が勧請したか、とにかく誰も富士登山せずしてこの地蔵がこの地にあるとはかえって考えにくい。因みに魚沼周辺でこれ以外に輿樗地蔵が信仰されていた形跡は全くない。というより、この地に富士講が本格的に入ってくるのは明治まで待たねばならない。となると、香取神社にある文化七年の手水鉢二基までその存在理由を疑わなければならないが、詰まるところ集落単位ではなく個人的に富士講や富士信仰にかかわる人たちが少数かつ単発的に存在し、彼らによってこれらの石造物(を造るきっかけ)がもたらされたと考えたほうが無難であろう。
実は卒論を書いていた頃、東岳院に行ったことがある。もう一講設けてそのときの話を書き、このエピソードを締めくくりたいと思う。
注
- 種智院大学密教学会編『梵字大鑑』(名著普及会、1983)、p.631。
- 眞鍋廣濟『地蔵菩薩の研究』(三密堂書店、1960)、p.122。
- 「『延命地蔵経』の成立―その思想背景をめぐって―」、北畠典生博士古稀記念論文集刊行会『日本佛教文化論叢:北畠典生博士古稀記念論文集』上巻(永田文昌堂、1998)所収、p.186。
- 印度撰述部五(大東出版社、1973)、pp.295-298。
- 手元に版本の類がなかったので、『日本大蔵経』第六巻(鈴木学術財団刊行・講談社発売、1973)所収の亮汰『延命地藏經鈔』の当該箇所から引文だけ抽出した(p.128a)。
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