松伏町の輿樗(きやり)地蔵尊(三)

▼東岳院に行く

今回も前講からの続き、そしてこの話題の最終回である。

 今回も写真が多めなので多少重く感じられるかもしれない。なお、今回はモノクロ写真がある。21歳の夏に撮影したものだから、8年近く前のものである。私は資料用の銀塩写真をモノクロで撮ることにしていて、それは今でも続いている。これは、松伏町で働いていた時からの習慣であったこと、印刷原稿として用いた時に鮮明に出ること(特に古文書などの濃淡の差が大きいものを撮影するとき)、などの理由による。今見返すと、私がかつて撮った写真は露出も構図も赤面もので、公開するにはどれも躊躇せざるを得ない。取り込むにあたって色調補正などをした写真もいくつかある。その点、撮ったその場で大まかに確認できるデジタルカメラは便利である。これからデジタルカメラを多用することによって、これらの習慣がどう変化するか、自分でもよくわからないでいる。
 なお、撮影した銀塩写真はどれもネオパンプレストを用い、サービス判のプリントから取り込んでいる。

 学部四年生の夏、卒業論文を書くに当たって、本や東京の富士講(新宿区早稲田の丸藤宮元講社に取材していた)から得られる知識に飽き足らなかった私は、富士山の周辺を歩いて見聞を広めることを思い立った。幸い、私は高校では山岳部だったので野営の基礎はあった。予定は二週間で、最後は学部の研究室が夏休みのゼミを行う稲取温泉で彼らと合流するつもりだった。これなら帰りはバスで東京へ帰れる。親からの借金とバイトで貯めた貯金を行く先々で切り崩しながらの旅で、宿泊はテントを張りながらの自炊であった(とてもではないが、それだけの日数を宿泊するお金などなかった)。ただし、ゼミの数日と初日、それに御殿場では建物の中で寝ることができた。初日は指導教授のつてで、高尾山薬王院に泊めてもらえることになった。実は薬王院では普段個人で宿泊はさせないのである。今更ながら執事長(当時。後に山主になられた)の大山氏と一山の方々には感謝を申し上げたい。御殿場の時は、市街地だったので流石にキャンプするわけには行かず、駅前の旅館に飛び込むことにしたのである。
 当時を記録したメモを見ると、自宅を出発したのは1994年8月17日の早朝であった。高尾山から河口湖へ入りそこで十日ほど滞在し、田貫湖を経由して御殿場に抜け、旅館で一泊したのち東岳院に到着したのは8月29日であった(旅の話はこれからも出てくる事があろう)。朝、御殿場駅前の鄙びた旅館を出て、バスに乗る。東岳院に行くまでのルートをどうやって調べたか、自分でも覚えていない。御殿場の観光案内にでも聞いたのだろう。メモによると私は風邪を引いていて(確かその香養館という旅館の風呂が沸かしてなくて水風呂だったのだ!)、「東岳院は体調のよいときにいくべきで、失敗だった」とある。
 東岳院は御殿場市上小林というところにある。それ以前は地域の名を取って駿東郡高根村と呼ばれ、それ以前はこの集落だけで上小林村と言った。湧水の豊富なところで稲作がかつては盛んだったらしい(注1)。また、現代の御殿場市はわさびや水掛け菜と呼ばれる菜の花の類が特産とされており、それらも湧水・高冷地という地の利を生かして栽培しているようだ。
 以下、当時の記憶と後日調べたこと(とはいえ最近このページを書くために改めて調べたのだが)を織り交ぜて書くことにする。

▼東岳院あれこれ

 東岳院はもと地蔵院といった。近世に書かれた駿河国の地誌を探してみる。まず『駿河国志』には記載がない。また、『駿国雑誌』も同様である。文政三年(1820)に完成した桑原藤泰(黙斎)の『駿河記』では以下のようにある。

【上小林】寛永改高八拾石九升九合 至沼津凡八里餘 田額百九拾三石壱斗八升九合 小田原領
【下小林】(中略)
(中略)○地藏堂 號卓錐山地藤院 本尊輿樗地藏 大寶年中役小角安置(注2)

 天保六年(1835)に成立した新庄道雄『駿河国新風土記』にある当該の箇所(注3)も同文であるが、実は新庄道雄は駿東郡を調査していない。おそらく、彼の死後桑原の文を以て充当したものだろう。
 文久元年(1861)の中村高平による『駿河志料』では単に「【地藏堂】」とあるのみ(注4)である。このようにしてみると、概してこの地蔵堂に特色を感じることはできない。ともあれ、大宝年中(701-704)に役小角が本尊を安置したのが始まり、というのが桑原の調べたところである。彼は文政元年(1818)の春に駿東郡を調べているので、その頃の伝承なのだろう。
 現代までに地元に伝わっているところを調べてみると、より詳しく情報を得ることができる。また、幸運にも東京女子大学民俗調査団が御殿場市の市史編さん委員会の委属を受けて上小林を調査した報告書(注5)があり、これによって大小様々の情報を得ることができた。
 東岳院の概要はこの報告書にあるところを紹介すれば基本を押さえられると思われる。以下多少長いがそれを引用する。

 村内には東岳院という寺があるが、尼寺で檀家・檀徒関係はない。村の人々が檀家となっている寺は善龍寺・大乗寺・青龍寺・久成寺の五寺で他に神道の家が五軒ある。新興宗教として創価学会が入っている。
東岳院 役行者が富士山に登る時庵を結んだ所と言われており、村のはずれに位置している。東岳院という名が付いたのは明治三十四年七月十七日で、神奈川県の廃寺の名称をもらって付けたもの。臨済宗建長寺派。それ以前は地蔵院と称し、高根村誌には寛政年間に堂宇が建立されたと記されている。現在の本堂は文化四年に建立されたもの。また二六三年前には住職が村人に葬られて以来尼寺となっている。土地は独立しており住職のものとなっている。檀家なし。輿樗地蔵・子育地蔵・半僧坊が祭られている。
 輿樗地蔵尊―役行者が富士山に登ろうとした時、夢の中で木やり唄を歌えばよいという神のお告げを聞いたので、ヤーサヤーサと木やり音頭をとって登ったため木やり地蔵という名称がついたと言われている。しかし、何故「輿樗」という字をあてたのかはわからない。その名のとおり、とび職の人たちからも信仰されており、東京・千葉・横浜・埼玉の木やり講の人達が参りにきている。また、初めて富士山に登った役行者にあやかって富士講の人達が無事登山できるように参っていった事は認められるが、講分布は講帳がなく明らかではない。村人の話では、古沢から須走に行く道者たちが白いかたびらを着て鈴を鳴らし子供達がよってくると金を与えていったということである。逆に子供達が「道者金をまけ!」と言って追いかけたこともあったそうだ。金額は五厘か一銭で、その行列は十五日も二十日も続けられたという。
 祭日は、お盆の七月二十四日。百八の燈明をつけ、婦人の名前のはいった堤燈にあかりをいれ夜は十時頃までついている。昔は余興として映画・芝居・浪曲があったが、最近は盆踊りが行われるようになった。この日の賽銭は青年団の収入となる。
 次の資料は大正二年刊『高根村誌』によるものである。
輿樗地蔵略縁起
柳(ママ)当院本尊輿樗地蔵尊の来由を尋るに往昔人皇七代孝霊天皇の御宇庚申の年近江の湖水一夜にあらわれて当国に富士山出現さ(ママ)り此間に大力鬼と云神数多の神とともに近江の国より此山を運び為ふ(給ふ)時に一人異形の神ありて手に采配を持てきやりの拍子を取りて先立為ひ(給ひ)ともともに此山を成就し給ひけり、其後此神この処に鎮座ましますといへども其頃は人民はなはだ稀にして是をしる者なし、多くの星霜を経て文武天皇大宝年中役行者始て此山に分け登り見給ふとぞ峯八葉にわかれて蓮華の開くが如く遙に人間世界の外にぬきんで直に金剛界大日の浄土なる事を知り給ひ国土人民を此山に登らしめ業障消滅して浄土の勝因を結びしめんと欲して十二月晦日大宮より登山して正月元旦須走口へ下り給ふ時此里に下着給へば遙の林の中より赫々たる光明現して富士の絶頂を照す行者怪んで行て是を見為(給)へば壱人の僧端厳美麗なるが衣に襷をかけ手に采配を持って彼の内に立為ふ(給ふ)行者如何なる人ぞと尋ね為(給)へば我は六道能化の地蔵なり、この山開闢の時大力鬼神と共にそこの山を成立せり其時我此姿を現じ輿樗の拍子をとりて諸神の力をはげまし一夜の内にことごとく成立せり
柳(ママ)当山は金剛界毘盧舎那大日の浄土也、末世濁悪の衆生を救はんが為に此浄土を五濁悪世に現ず是皆法身無縁の大悲心より現出する処也故に諸天龍神日本国中の神に悉くちからを合せて補佐するが故に一夜に成就せり我は即ち大なる阿字不生不動の本体なれば大日即地蔵地蔵即浅間大菩薩なり、三即一一即三にして別有事なし此故末世の衆生一度此山に登りて結縁する輩は生々世々の罪業悉く消滅して大日阿字不生の門に入て長く生死長夜の闇を出て現当北果を得苦を免れん此故に我此山の麓にて留りて衆生をすゝめて此山江登らしめんと欲すれども時未だいたらず時節到来して今汝にあふことを得たり、汝一宇の堂を建立して我この形を安置せばこの後登山の人を多く利益せんといゝをわって即此石僧と化し給へりこゝににおいて行者信心肝に銘じ此処に一堂を建立してこの尊像を安置したりしより以来登山の人々かならず先此地蔵尊を瞻礼して山に登る時は其功徳広大にして計りがたし一度結縁の輩は無量の罪を消滅し無限の福徳を得る事疑なし、此即地蔵尊の本願なりこの尊像は即往古きやりし給ひし時の尊像なり可信可恭穴賢
 月 日
  駿州駿東郡御厨古沢通上小林村去来原
卓錐山地蔵禅院
 子育地蔵―安産と子の成長を願い御殿場はもちろん東京・埼玉・舟橋からもお参りにくる人がおり、庵主さんに名付けてもらう人もいる。現在では輿樗地蔵に対する信仰より強くなっている。祭りは輿樗地蔵と同日。
 半僧坊―遠州奥山の半僧坊の分身で武神。戦争中にはやり山梨・神奈川・平塚から参りにきたが今は御殿場のみ。三月十七日が祭日で、その時には建長寺派の僧が六、七人集まって祈祷する。寺は村人から祝儀をもらって赤飯、うどんなどを昼食に御馳走し御札を配る。
 その他に四月八日の花まつりが五月八日に寺で行われる。エンドウの花で屋根を飾って甘茶をかけその甘茶をもらってきて飲む。もちぐさの団子をついて供える。
(注6)

 東岳院は民俗的な話題に事欠かない寺院である。この報告書によれば、この寺院は檀家が無いにもかかわらず、上小林の人生儀礼や年中行事の至るところで大きな関わりを持つ(文末のページ数はその報告書のもの)。

安産祈願 子宝・子育て地蔵として、昔からきやり地蔵が知られている。明治の頃は東京方面からも祈願にきたという。
 妊娠してしばらくすると(腹帯祝いの頃)、きやり地蔵のところからミョウゴ(薄紙に地蔵の姿が書いてある、親指くらいの大きさ)をもらってきて、産気づいたら清水に浸して飲んだ。そうすると産が軽くすむといった。また地蔵さんからもらってきたお札をお産の時枕もとに貼っておいたりした。五十一日目、ヒャクヒトエにお礼参りをした。(注7)(p.23)
拾い親 生後間もない子供を拾い親のもとへ捨てることがあった。ウッチャリッコと呼ぶ。拾い親となるのは親分さん、仲人、親戚などの場合もあったが、きやり地蔵のことが多かった。親戚などの時には、親が拾い親に子供を手渡し、一、二時間たつと親がひきとりにきた。以後拾い親と子供は実の親子同様の関係を一生続けた。きやり地蔵に捨てる場合は庵主様に拾ってもらったという。
 子供を捨てるのは産婦が三十三才の厄年に生まれた子、体が弱い子、次男で丑年に生まれた子などであった。(p.25)
ヒャクヒトエ 生後百一日目を、ヒャクヒトエと称し、生母が子供を抱いて氏神ときやり地蔵に赤飯を持って参詣した。この時に初めて鳥居をくぐった。第一子にはオビタテ着物をかぶせてお参りした。宮参りは今でもほとんどの家でする。(p.24)
産育に関する禁忌・俗信
(中略)
○夜泣きする時は、きやり地蔵に参ったり、刃物を蒲団の下に入れたりするとよい。(p.27)
青年団 学校を卒業すると自動的に青年団に入ったようである。青年団の仕事としては、七月二十四日にきやり地蔵にちょうちん、百八灯をつけに行ったり、戦争に行く人を見送ったりした。また、昭和初期には女子青年団とお日待ちに地芝居をしたという。(p.28)
節分
(中略)
 大部分の家では、大豆を炒って、「フクワウチ、オニワソト、オニノ目ヲブッツブセ」といいながら豆まきをしている。大豆は、豆の枝で炒るとよいといわれている。年男や、疫年にあたる人は、川崎大師・大山様・三島大社・相模の道尊社などに豆まきに行った。その他の人々も、キヤリ地蔵に豆まきに行った。今でも、まきに行く人もある。(p.102。「道尊社」は道了尊最乗寺のことだろう)
お彼岸 仏さんが家に来るといわれている。彼岸の入りボタモチ、中日に赤飯、明けにマンジュウを作る。彼岸中に墓参りに行ったり、キヤリ地蔵さんへお参りにいったりする。(後略)(p.103)
卯月八日 四月八日。キヤリ地蔵へおまいりに行った。米や豆、ハナクサ団子と呼ばれるヨモギを混ぜた団子を持っていって、キヤリ地蔵にあるお釈迦様の像に甘茶をかけた。二十年ぐらい前から行われていない。(p.103)
盆踊り 七月二十四日。御殿場市と合併して後、市の依頼によってキヤリ地蔵尊祭と合わせて行われるようになる。(p.105)
キヤリ地蔵尊祭 七月二十四日。この日はキヤリ地蔵を祭ると共に、百八燈を焚いて精霊もお祭りする。百八の灯明皿に、昔は灯心を燃やし、今はろうそくをつける。また、山門の両脇には、新しく嫁に来た人や病気の全快した人が、自分の名を堤灯に書いてもらって飾る。(p.105)
名号流し 九月七日。戦前は、東京・千葉、埼玉の方から道者が訪れ、キヤリ地蔵堂の名号札を買い求めていった。その残りの札を整理することを兼ねて、この行事が行われるようになった。この日、地蔵堂からその年に残った名号札という、幅一センチメートル長さ三センチメートルほどの、キヤリ地蔵尊の描かれた札を何百枚ともらい受けて近くの川に行き、念仏を唱えながら病気にならないことを祈願して、これを一枚一枚流していくのである。(p.106)
お彼岸 春と同様で、入りにはぼた餅、中日には赤飯、明けには明けまんじゅうをつくって先祖に供える。七年ほど前にはキヤリ地蔵堂で供養を行っていたが、今は行われていない。(p.107)

 今、拾いあげただけでもこれだけの行事や儀礼に輿樗地蔵尊が関係する。実に地域との密着しているといえよう。この他、庵主さんから聞くところによれば、松伏町の輿樗地蔵では小旗を覆屋に吊るすという風習があったが、御殿場では木札を吊るすという風習があるということだった。ただ、どのような木札をどこにどうやって吊るす(または打ち付ける)のかは不覚にも聞き損ねた。
 また、御殿場市の某家には「地蔵横道巡礼歌」なるものが伝わっている。これは、地元で横道巡礼と呼ばれるいわゆるミニ巡礼のご詠歌集で、薬師・地蔵・観音・阿弥陀・庚申に縁ある寺院を結んで巡礼する際に行く先々で歌われるものである。このうち「地蔵横道巡礼歌」の十番にこの地蔵院が指定されている。

 十   上小林地蔵院
やあさあと導玉へ地蔵尊 衆生の綱のあらんかぎりハ(注8)

 更に、昭和五十二年(1977)に落成した御殿場市立御殿場市民会館の緞帳に使われているのは、東岳院にある「源頼朝猟富士野之図」という絵馬の図案なのだそうである(注9)。
 ただし、報告書から挙げたところとは若干異なることを示す資料もあるので、これらを鵜呑みにすることは禁物である。私は東岳院を訪れた時、庵主さんから「富士山縁起輿樗地蔵尊縁起」と称する一枚の紙を頂戴した。下の写真がそれであるが、保存が悪くてぼろぼろになってしまった。

現行の縁起
現行の縁起

 突然重装備の若い男が訪問してきたのだから、さぞや驚いたのではないかと今にして思うのだが、確か庵主さん(いい忘れたが、特に禅宗系では尼僧のことを「庵主」と呼ぶ。男の「坊主」に対するものだと思う)は年配の方であった。昭和四十三年に刊行された御殿場市文化財審議会編『御殿場の文化財案内』(文化財のしおり第9集、御殿場市教育委員会、1968)に東岳院が紹介されているが、

本院は往時より代々尼僧が住職し保護祈祷を続けてきているが、現在二人若き尼僧が住し堂守りをしている。例祭は毎年七月二十四日で盛大に行っている。

とある(p.26)。訪ねた時より三十年近く前に「若」かったのなら、それもわかる。ともかく、私がその時いただいた縁起と報告書にある『高根村誌』(調べたが追いきれなかった。いやもっと時間をかければ追う事もできるだろうが、そこまでの必要はあるまい)からの抜粋とはいささか伝説の内容が違う。おそらく『高根村誌』にある「輿樗地蔵略縁起」は、書式からして私が頂戴したものと同様、参拝者に配布するために印刷されたものだと思う。それを『高根村誌』がそのまま取り入れたのだろう。報告書を信ずるなら明治から大正ぐらいに配布されていたものだろうか。この現行の縁起と報告書との相違点は以下の通りである。
(1)輿樗地蔵の伝説に小さい揺れがある。
 輿樗地蔵の伝説だけを比較して相違するのは、

  1. 略縁起では役行者の登山が文武天皇の時となっているが、現行の縁起では持統天皇のころとなっている。
  2. 略縁起では「即此石僧と化し給へり」とあり、これが誤植ではないという前提付きで「石の僧となった」と読めるが、現行の縁起では「此の僧、石と化したのであります」とあり、ニュアンスが異なってくる。
  3. 略縁起で木やり唄を歌っていたのは「異形の神」と書かれる地蔵菩薩であるが、現行の縁起では役行者自身が歌いながら神々と登山したことになっている。

ということである。庵主さんいわく、輿樗地蔵の本尊は秘仏となっているが、自然石だという。となると、現行の縁起の方が記述として正確だということになる。また、三番目の違いはおそらく富士山創生のエピソードを省いてしまい(後述)、木やり唄が登場しなくなったために辻褄あわせに役行者が唱えたことになったのだと思う。

(2)エピソードに増減がある。
 略縁起では富士山を創生するエピソードが冒頭にあるが、現行の縁起にはそれがなく役行者のエピソードから始まっている。
 また、略縁起ではこの地蔵出現のエピソードで終っているが、現行の縁起ではこの後に、子安地蔵のエピソード、去来原という地名の由来、呪符の簡単な解説が付されている。
 ここにある富士山創生のエピソードは、後に一般向け、あるいは子供向けに書きなおされて出版されている(注10)。子供向けの方には、富士山を造ろうといいだし神々を指揮したのは「器用な神さま」とよばれる大力鬼とは別の神であることになっているが、これは翻案者の勝間田二郎氏のアイデアだろう。
 残りの付加された箇所については、現行の縁起から原文を引用することにしよう。誤植と思われる箇所もあるがそのままにする。また(*)の箇所に繰返しの記号があるが表現できないのでこれを以て代替する。さらに、「(やさ原)」には傍点があるが省略する。

富士山輿樗地蔵尊縁起
当時は卓錐山東岳院と号し富士山出現後、始めての登山者を祀り輿樗地蔵尊と称します。
四十一代持統天皇の御代に役の行者小角が、(以下、輿樗地蔵のエピソード。中略)。
爰に於て行者は信心肝に銘じ此処に小堂を建立し此の尊像を安置し奉り、是れが即ち当時の本尊として祀られし地蔵尊であります。
これより、以来登山の人々は必ず先づこの地蔵尊に参詣して山に登る時はその加護拡大にして計りがたし一度結縁の者は無量の罪を消滅し無院の福徳を得ること疑なしと云われ、是即ち地蔵尊の本願であります。
又本堂前面左側の小堂は明治初年に東京の拍甚と云える先達が或日の黎明に富士山の本中道を廻りしにきやり地蔵院の真正面六合目の位置に当り地中より目映き程、光を放てる物を認め怪しみて現場に到り掘り出して看れば、こわ如何に地蔵尊像であったので之を勧請し発見位置に因みて当寺に祀り富士山出現延命子安地蔵尊と申します。
当寺の所在地を字名を(去来原)と書きて「やあさあ原」と読ませ、又地蔵尊の称名も「輿樗」と書いて「きやり」と読ませる事の由来は詳ならざるも(去来)と云う文字は国語で「さあ(又は)いざ」と読み往来組来ゆききすること、又称名の(輿樗)は輿を(ねる)意味で「おねり」のこと其の囃方は、日本、韓国、中国、各国みな一様で「やあさ(*)」を呼びその「おねり」が過ぎたり戻つたり去来する方式であって其の当時(行者の富士へ登山せる頃)の現在当院附近は一帯の無名の野原(現在当院前面の田畑一帯)であつたが其のおねりが(やあさ(*))の囃しで通ったので字名即ち去来原(やあさあ原)と附名せるものと伝うれど今日では(やあさあ)の(あ)の字を省いて単に(やさ原)と呼べり。
然して現在当寺にて授与する呪符は役の行者が孔雀明王の大法に依る呪符を意味し其お像を刻み表したるものにして効験著しき事衆知の処であります。

 以上が現行の縁起の特に後半である。ここで子安地蔵が富士講に関わることが明らかにされる。

▼東岳院・子育地蔵尊と富士講

 そもそも、この東岳院と富士講の直接の関係は、前項でも書いたように富士山須走口と御殿場や古沢との往来に通りかかるということだ。東岳院の前は小山・山中湖線という県道になっていて、かつては鎌倉往還といったそうである。庵主さんの話でも、「自分は見ていないが、戦前は多く道者が来たと聞く」ということだった。ここでまた報告書から引用しよう。

<富士の道者のルート>富士登山口・須走に近い為、登山者の往来も激しかった。この県道もまた、足柄街道や相模方面からやってくる富士講の道者のルートとして、夏になるとにぎわった。道者は、山北の地蔵さんから竹之下の地蔵さんへ、そして上小林のきやり地蔵へとお参りしながら歩いてきて、須走口から富士山に登った。しかし、宿場町である須走に近いので上小林には旅館などは全くなかった。ただ、きやり地蔵とよばれる東岳院が、ぼたもちやうどんなどを接待し、道者はここで疲れをいやすことができた。こうした一般の富士講とは別に、このきやり地蔵の信者でつくられたきやり講という百人位の講社があった。これは、東京、横浜などのとび職や石屋など職人が多く、きやり講の為だけに来る人もいたが、大抵は富士山にも登っていった。職業の屋号を染めぬいたまねきをもってきて、地蔵院においたり、かけたりしていった。帰りは、木遣歌を歌いながら下っていくが、地蔵院の庭で奉納していくこともあった。今でも、分校の前に川のそばに、きやり講の一つである東運講が作った、「右・御殿場口、左・きやり地蔵」という道しるべが立っている。ただ、須走口から登るのは、東京方面が主で、普通は吉田口から登り、くだりにここを利用する人が多かった。その為か帰りの汽車賃のみ残して、道々村の子供たちが「めでたいな、めでたいな」(無事に下山してきたというので)というと、お金をばらまいたという。しかし、講社も戦争、疎開などで解散し、先達を継ぐ者もいない為、今ではたまに一部の人が十人位でやってくるだけになった。(注11)

 勝間田二郎氏によれば、「境内を入って右手に講の人や登山者の宿泊所があり、二階建になっている。また梁に千社札がはってあって、たいへん貴重である」(注12)ということなのだが、私はこの宿泊所に気づかなかった。本堂と子安地蔵に気を取られていたからだろう。下の全景を写した写真を見ても、本堂の隣にある建物がそうだろうかと思う程度である。勝間田氏がいう「千社札」とは要するにマネキや奉納額の類である。下の写真の額は確か本堂正面に懸かっていたものと思う。本堂向拝の柱に「身禄」と刻まれた一山講の幢(おそらく銅か金銅製)が吊られているのが写真からわかるだろうか。また、写真の額も一山講のものである。庵主さんに聞いたところではこれは神奈川県の生麦の講中で、般若心経を唱えていくということだった。この寺院には今でも立ち寄る富士講がいるということがわかる。なお、本堂は近世の建立で大正末期から昭和十二年ごろにかけて改修されているらしい(注13)。
 また、本堂の手前に石造の地蔵菩薩立像がある。この地蔵が立つ基礎にはびっしりと奉納した富士講講中の名前が刻まれている。造立年代はうろおぼえであるが、確か昭和十年(1935)だったように記憶している。メモをみると、「牛込宮元同行」として20人あまりの列名があり、その中に井田浅一郎氏の名前がある。当時、東京新宿区早稲田の丸藤宮元講社を取材していて、何かの参考になるかと思ってメモしたのだと思うが、浅一郎氏は現在の丸藤宮元講社の先達である井田清重氏の父上である。だから記憶はそれほどはずしていないと思う。本堂の改修の時期と重なるので、それに合わせたものかもしれない。下の基礎部の写真は幅を600pxと大きめに取っている。びっしりと刻んでいるところをよく見てほしい。機会があるなら、このマネキ・奉納額と地蔵像はきちんと調査するべきだと痛感している。いや、いつかきちんと調査したい。これらの貴重な富士講の史料が御殿場の農村で手付かずになっているとは、どれくらいの研究者が知っているのだろうか。
 さて、その「先達」とよばれる人(富士講かきやり講か判別できないが、「拍甚」が屋号だとしたらきやり講だろうか)が発見したという子安(子育)地蔵は別に堂を設けて安置されている。確か、本堂に対して左手か裏手だったと思う。このような大きな本尊(写真参照)が富士山の、それもお中道に埋まっていたとはとても信じられないが、それでも地元で大きな信仰を集めていることは報告書にもある。

 子育地蔵 東岳院の境内にある。子供が病気になるとお参りに行き、元気になると前かけをあげてお礼をすることもある。子供のできない人が、授かるようにお参りに来ることもある。また、庵主さんに姓名判断をしてもらい、子供の名前をつけることもある。上小林では、ほとんどの子供の病気の治癒はここに来て祈るということである。(注14)

 ただ、私はどうも輿樗地蔵と子育(現行の縁起では子安)地蔵が混同されているところがあるような気がする。例えば安産祈願に用いられるミョウゴは輿樗地蔵のものであって子育地蔵のものではない。しかし、ここに安産を祈願して参詣する人は本堂の輿樗地蔵もさることながら子育地蔵を特に参るだろう。地蔵菩薩という、もともと同じものを祀っているから致し方のないことなのかもしれないが。

 ところで、私は東岳院で庵主さんに縁起の他にもう一つ、頂戴したものがある。それが「清水に浸して飲」み、名号流しという行事で処分されると報告書でいい、現行の縁起で「孔雀明王の大法に依る」といわれる地蔵菩薩のお身影である。ミョウゴ(名号)という名前からして、初めは「南無輿樗地蔵尊」など地蔵の名前が刷ってあったのではないかと思うが、今となってはわからない。三枚の地蔵菩薩を赤く刷った切片が包皮で包まれており、それが三つくらい束になっている。地蔵菩薩は延命地蔵の形をとらない立像である。孔雀明王云々は役行者の伝記から来たものでこの呪符と関係は無いと思う。
 そのミョウゴをお見せしたいところだか、実は長い年月のうちに紛失してしまった。しかし、偶然、次の講に公開を予定している「お伝え」の所有者である足立区足立の柳川峰造氏に全く同じ物をいただいた。下の写真がそれである。写真で比較にしているのは巣鴨にあるとげぬき地蔵・高岩寺のお身影である。折れた針を飲み込んでしまった女中がこれを飲んだところ吐き出したが、その身影には折れた針が刺さっていたといわれているもので、「とげぬき」の由来とされるお身影である。機械で印刷・裁断した巣鴨のものに比べると、ミョウゴはいかにも手作りという感じがする。特にはさみで切ったような不揃い加減があって、アップの写真でミョウゴが歪んでいるように写っているが、それは紙の四辺がすでに曲がっているのである。ミョウゴ一枚の大きさは縦4.3センチメートル程度、幅が1.8センチメートル程度である。薄手の和紙に刷られていて、写真でも下地がうっすらと透けてみえるのがおわかりだろうか。

 この後、東岳院を離れた私は、この後御殿場市に戻り、足柄峠を徒歩で越えて矢倉沢でキャンプすることになる。そのことはいつか書くことがあるかもしれないし書かないかもしれない。

 この話題は、とりあえずこれで終わりにしたい。
 突然飛び込んだにもかかわらずお話を聞かせてくださった東岳院の庵主さん、ミョウゴをくださった柳川さんに、この場で感謝申し上げたい。
 埼玉の田舎にある石造物から富士講の影を求めて大きく話が飛躍してしまった感がある。だが、こうした輿樗地蔵を模した石造物は実はどうやら松伏町のものだけではないらしい。私は東岳院の庵主さんに、埼玉県の松伏町というところにこれこれこのようなものがある、だから来てみたのだと絵を殴り書きにして説明した。すると、庵主さんは伊豆にも同じようなものがあり、それを尋ねにここへ人が来たことがある、というではないか。それが富士講とどう関わるかは全くわからない。また、松伏町のものが壬生地蔵の姿をとる理由はここでもわからなかった。本尊は自然石、子育地蔵は延命地蔵の姿ではあるが明治のもの、両方とも壬生地蔵とは関わりなさそうである。この点は依然謎として残らざるを得ない。
 しかし、富士講関係の文献で輿樗地蔵に言及したものは、寡聞にして見たことがない。たまに民俗調査報告の類で富士講に関する聞き取りの中で、「キヤリ地蔵」や「きやり地蔵」の名で出てくる程度である。第四~六講が富士講への理解を深める一助となれば幸いである。

  1. 勝間田二郎編『写真集明治大正昭和御殿場』(『ふるさとの想い出』255、国書刊行会、1982)、p.41、「85水車小屋のある風景」参照。
  2. 桑原藤泰著;足立鍬太郎校訂『駿河記』下巻(臨川書店、1974:加藤弘造、1932を復刻したもの)、p.435f。なお訓点は省略した。「輿樗」には「きやり」のルビがふってある。「地藤」は「地蔵」の誤植だろう。
  3. 新庄道雄著;足立鍬太郎修訂『修訂駿河国新風土記』下巻(国書刊行会、1975)p.1056。
  4. 中村高平著;橋本博校訂『駿河志料』二(歴史出版社、1969)、p.716。
  5. 御殿場市史編さん委員会;東京女子大学民俗調査団『冨士東麓の民俗:静岡県御殿場市上小林』([御殿場市史編さん委員会?]、1975)。なお、その前年に東京女子大学民俗調査団が単独で発行した同名・同内容の報告書がある(違いは後者「あとがき」で、前者のそれにある最後の一段落が削除されていること、前者奥付に御殿場市史編さん委員会の名前がないことである)。
  6. 注5、p.114f。なお、原文の(ママ)はルビだったものを後ろにした。おそらく「抑」だろう。その他に(給)やわずかしかない句読点などはすべて原文のまま。「祈祷」のトウ字は原文では正字。この字についてはいつも何とかならないものかと思う。
  7. 御殿場市史編さん委員会編『御殿場市史』別巻I 民俗・考古編(御殿場市役所、1982)のp.243fに似たような記述があるが、おそらくここから孫引きしたものだろう。
  8. 御殿場市史編さん委員会編『御殿場市史』4 近世資料編(御殿場市役所、1978)、p.268
  9. 注1、p.5。御殿場市文化財審議会編『御殿場の神社・寺院案内』(文化財のしおり第18集、御殿場市教育委員会、1978)、p.77。
  10. 一般向けのものは御殿場市文化財審議会編『御殿場の民話・伝説』(文化財のしおり第17集、御殿場市教育委員会、1978)、pp.25-27。子供向けのものは勝間田二郎編著『御殿場・小山の伝説』([勝間田二郎]、1985)、pp.165-171。
  11. 注5、p.56。
  12. 注9、p.171。
  13. 御殿場市文化財審議委員会編『御殿場の名所史跡案内』(文化財のしおり第3集、御殿場市文化財調査委員会、1962)、p.18。今は第一集から第五集までを合冊して復刻した御殿場市文化財審議会編『文化財のしおり:第一集~第五集合本復刻版』(御殿場市教育委員会、1980)によった。同内容のものが御殿場市文化財審議会編『御殿場の文化財案内』(文化財のしおり第9集、御殿場市教育委員会、1968)、p.26にある。
  14. 注5、p.110。

 

東岳院全景東岳院本堂
東岳院全景東岳院本堂
本堂の奉納額本堂手前の地蔵
本堂の奉納額本堂手前の地蔵
地蔵基部側面子育地蔵堂子育地蔵尊
地蔵基部側面子育地蔵堂子育地蔵尊
輿樗地蔵尊の身影(赤い方)身影アップ(赤い方)
輿樗地蔵尊の身影(赤い方)身影アップ(赤い方)