富士講研究における『あしなか』の使い方(解説編)

▼『あしなか』と岩科小一郎

 『あしなか』とは、山村民俗の会による、その出版者名のとおり山村の民俗をテーマにした雑誌である。雑誌というよりは同人誌と表現したほうがより正確かもしれない。事実、昭和十四年の1輯にある「私たちの会の組織」という箇条書きには「・・・二、山と人との交渉を考究し、併せて山村民俗を調査します。三、数人の同人より成る会です。・・・」と会を紹介している。今でこそ数百人の会員を擁するが、創刊当時そこに連なる名は五つでしかなかった。
 しかし『あしなか』は、以来現在にいたるまで刊行が続いているという息の長い雑誌である。その誌面は長いことガリ版刷りで造られており、ガリ版を知らない世代の読者にとっては(いや、私も高校生まではガリ版を作らされた事がある)独特の味を感じせしむるであろう。今回はその『あしなか』のバックナンバー、とりわけ復刻版から富士講研究に役立つ記事を拾い集めて一覧にしようという試みである。

 『あしなか』が富士講研究に裨益する理由は、偏に創設者の一人として岩科小一郎(1907-1998)がいたことに他ならない。岩科小一郎は、言うまでもなく富士講研究史の金字塔の一つと誰もが認めうる『富士講の歴史:江戸庶民の山岳信仰』(名著出版、1983)の著者にして、戦後から現在に至るまでの富士講研究を代表する研究家である。私は彼について時折非難めいた批判をすることがあるけれども、それでも富士講研究の先蹤者としての敬意と評価は欠かしていないつもりである。柳田国男に心酔し、山と民俗の研究に半生を捧げたという彼は、富士講の研究に傾倒し始めた理由をこのように言う。

昭和二十四年四月八日に玉の井の長谷川勇君宅にて富士の錦絵を見せられふいと気が変わつて江戸富士の研究をはじめた。玉の井から富士の研究がはじまるとはいさゝか性典ものだが、爾来四年間、都内巡礼に図書館に老先達を訪ねる等、調査研究に暇なく、江戸人の富士信仰について資料を集め、二、三の研究予報本誌上に発表した。近く大部な江戸富士塚資料を執筆する予定である。
(『あしなか』38輯の著者紹介)

 ただし、後年の『富士講の歴史』のあとがきでは、

私が富士講に興味を持つようになったのは戦後である。それも研究しようという大それた考えからではなかった。若い頃から山歩きが好きであった私は、戦災で家と職を失い勤め人になった。幼い子を抱える戦災者の家計は苦しかった。山歩きなどの遊びは当然できない。それで、東京にいて何かできる趣味はないかと思案して、思いついたのが"富士塚"の巡礼だった。
(同書p.562)

と語っている。彼の家は代々「江戸生き人形」なるものの職人だったという。しかし彼自身はそうではなかったようで、「父は豊山(ほうざん)と号し江戸生き人形の工人として名があったが、幼にして死別しその技術は継ぎ得なかった」『あしなか』33輯の著者紹介)といい、『あしなか』251輯にある岩科の年譜によれば他に能舞台の装置を作り「万度屋」という屋号で仏具も商っていたようなので、むしろそちらの方が本業だったのではないかと思う。
 戦後、疎開先の山梨から戻った彼は東京都庁の守衛として従事した。職場で民俗のアンケート調査をしていたこともあったらしい(『あしなか』65輯「ひとだま」)。後にミロク信仰の研究で博士号をとり民俗学の権威の一人となる宮田登(故人)が、生前「富士講の研究を始めた学生のころ、都庁の守衛室に岩科に教えを乞いにいったものだった」と述懐していたのを聞いたことがある(『富士信仰研究』創刊号の宮田の講演録「富士信仰におけるシラとトキ」も参照のこと)。都庁の守衛室で守衛が学生相手に講莚を開くという光景は想像するに何とも奇異なものであるが、研究の素人(研究を生活の糧にしていない、という意味)によって造られてきたのが戦後の富士講研究史の特徴である。伊藤堅吉や平野榮次(いずれも故人)、現在富士信仰研究会の会長代行でもある岡田博といった岩科以外に富士講を研究してきた人たちも研究を生活の糧とはしていなかった(多分、私もそうだ)。この点、伝統的に信仰を生活の糧としない富士講徒とシンクロしているように見えるのは私の思い過ごしだろうか。
 ともかく、山歩きの代わりとしての富士塚巡りが、後に富士講の権威となる契機になるとは本人も想像し得なかったのではないかと思う。東京山嶺会やカメラ・ハイキング・クラブ(日本山岳写真協会の前身)の創立に参加し(『あしなか』17輯の著者紹介)、それまで「民俗学による新しい山の見方を普及する運動を起し、爾来、山岳雑誌に寄稿すること百余篇(中略)大菩薩連嶺の研究家として知られ(中略)日本山岳図書誌九百枚を執筆したが、蔵書も原稿も戦災で灰になった」という(『あしなか』33輯の著者紹介)程の岩科をして、富士講研究に駆り立てしめたものは単なる経済的な事情だけだったのであろうか。ちなみに、その失った蔵書とは本人いわく、「「豊山文庫」五千冊」(『あしなか』33輯p.27)」と豪語するほどのものであった。

 さておき、そのような岩科の周りに富士講に興味ある人たちが徐々に集まり、『あしなか』が富士講研究発表の場となっていったことは以下のリストからもご理解いただけるだろう。高じて「富士講研究会」が昭和三十七年に内部部会として成立し(富士研などと呼んでいたらしい)、富士塚の見学会などを行っていたようであるが、その蓄積を神奈川日本常民文化研究所編『富士講と富士塚―東京・神奈川―』(日本常民文化研究所調査報告第二集 平凡社復刻 1993)神奈川日本常民文化研究所編『富士講と富士塚―東京・埼玉・千葉・神奈川―』(日本常民文化研究所調査報告第四集 平凡社復刻 1993)を昭和五十二・三年度の文化庁民俗資料緊急調査補助事業の成果として報告すると、富士講に関する特集号がたまに組まれる程度に沈静化したようではある。この二冊と『富士講の歴史』を出版した1970年代後半から1980年代前半が富士講研究家としての岩科のピークだったのではないかと思う。しかし、後に『あしなか』で発表していた人たちが岩科の通夜の席上で富士信仰研究会発足を決め、現在の富士講研究の世界を担うようになったのだから、彼の功績は大きいと認めなければならない。
 岩科小一郎は1998年12月14日に逝去した。享年90歳。戒名は「富士院釈郎聡勧信居士」と、岩科の追悼号となった『あしなか』251輯にはある。岩科の弟子や山村民俗の会関係者による岩科の素描が伺えて興味深い。

 ただ、岩科の仕事には重大な問題を含むものがいくつか存在し、

などが挙げられる。どれも今後の富士講研究の大きな障害となるものであるが、これらの解決は私を含む世代以降の人間に委ねられるであろう。

 なお、岩科が『あしなか』の編集として関わったのは昭和二十四年から同六十二年の四十年近くに渡り、200号を以って八十の齢を迎えたのを機に退いた。その後、山村民俗の会は、『あしなか』の長期にわたる発行を理由に近畿日本ツーリストの旅の文化研究所が主催する第八回旅の文化賞・団体の部を受賞した。

 私個人は岩科小一郎に会ったことは無い。もっぱら文字を通してのみ、彼の主張を聞いてきた。だから弟子や門下といわれる筋合いでは全く無い。むしろ私の富士講研究は独学である(仏教学の学系ならあるのだが)。しかし、そうした学系だけで研究ができるわけでもなく、ましてやそれが元で学問の自由を阻害されるようなことがあってはならない。

▼『あしなか』富士講関係記事リスト

 多少脱線したが、以上が『あしなか』をめぐる梗概である。富士講研究のインフラ整備を目的の一つとする当富士講アーカイブにおいて、この有益な雑誌から有益な記事のリストを作ることは十分有意義であると考える。実は復刻版第九冊の分類目録に富士講関係記事のリストがあるのだが(p.51)、全く物足りないので、復刻版以後に刊行されたバックナンバーの記事も含めて新たに拾い出すことにしたい。これを書いている2001年9月現在で6月に出た257輯が最新である。次号は富士信仰の特集らしいのだが、発行が年末になるという噂があり、いつ出るかわからぬ同人誌を待っていることもままならぬのでその収録は次の機会としよう。

Update!
2001年12月に刊行された『あしなか』第259・260輯が「富士浅間信仰-山岳信仰特集II-」と銘打たれて富士信仰の特集となった。その内容は判明しているので本表編に追記してある。(2002/01/23)

 『あしなか』には、創刊号から昭和五十三年の160号輯までの復刻版と、会報の復刻と総索引を合わせた都合9冊が二期にわたってセットで刊行されている(『あしなか』、複刻版、名著出版、1980-1981、全9冊)。それらは少し大きな図書館でも閲覧できるから、収録されている範囲内の記事であれば求めることも難しくない。しかし、一方でそれ以後の号を山村民俗の会会員以外の人が求めることは難しい。実は私も会員ではなく、過去二度ほど入会しようとして電話と手紙で山村民俗の会にアクセスしてみたが、会員を増やす気がないのか私に何か問題でもあるのか、なしのつぶてで無視されたままである。それでも『あしなか』を購読している図書館はいくつかあるので、その方面から当たっていけば、やや難しいが会員以外でも閲覧自体は不可能ではない。今回は復刻版を東京都立多摩図書館、バックナンバーを立教大学図書館に求めた。後者は公共図書館からの紹介状があれば閲覧できるという。時間的な制約とコピーの費用さえ惜しまなければ国立国会図書館でも閲覧できる。国立情報学研究所(NII)目録所在情報サービスに加入している大学図書館や学術機関で、復刻版を所蔵していることを公表している館は以下のとおり。同様にバックナンバーを所蔵している館は以下のとおり。どうも重複書誌があるようで以下の館も一部所蔵していることが確認できる。ただ、個人的な感想としては、富士講の研究だけの目的で必要なら会費を払って会員になるまでもなく、数年に一度どこかの図書館で閲覧すればよい程度だと思っている。

・・・と、リストの掲載を以下にするつもりであったが、一枚に表示するには量が多くなりすぎた。ここは解説にとどめて、次講でリストを掲げたい。

(今講と次講に限り敬称略)