食行身禄入門(原題「この論文を読む前に」)

▼私がここで食行を扱わない理由

 しばらくお休みだった更新(初級シスアド試験受験のため富士講の勉強も三週間ほど一切しなかった)も再開である。その間に、私がここ数年投稿している雑誌「佛教文化学会紀要」の第十号が発行された。この号に投稿したのはラプソディシリーズ(私はタイトルを決めるのが苦手で最後まで悩むので、コードネームを付していることにしている)最後の「『一字不説の巻』タイトルと序文」である。実はこの抜刷を送る際に、短い文書を添付した。それが以下の「この論文を読む前に」である。
 もともと、この論文は内容通り『一字不説の巻』のタイトルと田辺和泉たちが書いた序文についての考察である。これだけ読んでも『一字不説の巻』についてわかる訳ではない。また、サンスクリットを使っていたりして富士講を専門にする人たちはかえって困惑するに違いない。そこで『一字不説の巻』とは何か・・・ということを説明する必要があった。今回、それをここに掲載するのは、とりあえず『一字不説の巻』や食行について手ごろな解説となっているし、実はここでの掲載を意識してやさしく書いた(つもりだ)からである。
 食行についての考察を論文形式で発表し、食行の研究者を自負する私が食行についてここに書くのを避けてきたのは戦略的あるいは政治的な理由からである。従来、食行について突っ込んだ研究がなされたことはなく、岩科小一郎氏の『富士講の歴史』(名著出版、1983)が唯一のまとまった研究であった。著作の細部まで考察した人はいなかったのである。
 新しい事を言うには、他人にそれを取られてしまわないことが大切である(もっとも史料など客観的に見るべきものは大いに共有すべきである)。この世界「言ったもん勝ち、やったもん勝ち」である。情報がタダで当たり前のWebではそれを維持するのはたぶん難しい。だから論文で先に言った後でWebで言う必要があった。また、論文は出した場所にもよるが、それは学者としての業績になる。私は自分の研究を学者の成果として、認められたい。しかし、Web上の主張はWebの世界では認知されるかもしれないが、それを離れると難しい。現に人文科学ではWeb上の論文は認められないのが現状である。それは査読がないから客観的な眼を経た成果の発表ではないということも理由である。Webは個人の力による自由な情報の送信を可能にする。もともと私は査読のない雑誌には投稿しないことにしている。もっと自由なWebならなおさらである。角行系文字の扱いやレイアウトの難しさなど他にも細かい理由はあるが、大きなものは以上である。今後も特に食行の話題に関しては、論文が主でWebが従になるだろう。

 ともあれ、以下に掲載するのがその「この論文を読む前に」である。もともとMS-Wordで造ったものをHTMLに整形したものである。もし、この内容に疑問があるならメールで質問を受け付ける。ただ、私も研究途上にあるので、全てにきちんとお答えすることはできかねる。角行系文字の「くう」はここでは「Ё」に置き換えるところだが、流石に実際の手紙には使えないので「イ杓」と表現する。同様に「チチ」「ハハ」も「Б」「Г」を使わずにカタカナとする。角行系文字のルールについてはこちら

▼この論文を読む前に

 拙稿「『一字不説の巻』のタイトルと序文」は、食行身禄(じきぎょう・みろく1671-1733)による通称『一字不説の巻』という著作に関する一連の考察を締めくくるものです。もともと、この論文の原型は原稿用紙400字詰め140枚からなる巨大なものでした。しかし、このサイズでの雑誌掲載は難しく、やむなく四つに分割したのです。既に先頭と末尾の部分は公表されました。この論文は残る真ん中の二つめと三つめを合わせたものです。
 したがって残りの二つ、そしてそれ以前に発表された「食行身禄と『一字不説の巻』をめぐって」(「宗教研究」309)の内容を知らずに読めば、理解に苦しむことは必至と思われます。このペーパーはその理解を助ける、いわば「前回までのあらすじ」ともいうべきもので、加えて私が全貌をまだ公表していない「角行系宗教」という概念についても軽くご説明したいと思います。

○食行身禄とは何者か

 食行身禄は寛文十一年(1671)に伊勢国一志郡にある小林家という農家の三男に生まれました。13才で江戸の商家に奉公として出され、17才のときに月行(げつぎょう)という行者と出会い、彼の弟子となりました。月行は角行系宗教の正統を継げなかった人で、世代としては開祖の角行(かくぎょう)から数えて4代目にあたります。実は食行の生涯についてはわからない部分が多いのですが、商家で働きながら毎日富士山の神に向かって勤行し、年に一度は富士山へ修行しに行っていたようです。そして月行亡き後行者として独立し、自ら油を行商しながらも信仰を続けていました。しかし、六十三才のとき、彼は富士山で死ぬことを決め、富士山の八合目に組立て式の厨子を持ち込んでその中で断食して亡くなりました。享保十八年(1733)夏のことでした。
彼が富士山で死のうと考えた理由には諸説ありますが、どれも決定的な説得力はありません。しかし、食行の最後の著作に書いてあることを信用するなら、彼は彼ら(食行と、彼を操っているはずの「神」)なりの正義を執行するために、神の使いとして生まれ変わるべく現世での肉体を捨てたかった、というのが素直な結論だと考えています。

○食行の三つの著作

 食行には、少なくとも三種類の著作があることが、自筆本の存在によって確認されています。彼は好んで「三とおりのかきもの」という表現を使いますが、しかし今後も未知の著作が発見されないとは限りません。
 ともかく、その三つとは、(1)享保十四年の『一字不説お開きみろく之御世之訳お書置申候』(通称『一字不説の巻』)、(2)享保十六年の『食行身禄イ杓一切の決定読哥』(「イ杓」は一字で「くう」と読みます。角行系宗教の人たちが使う独特の文字群の一つです。この文字群を私は「角行系文字」と呼んでいます。通称『お決定の巻』)、(3)享保十七年から十八年ごろの無題の著作 (通称『お添書の巻』)です。
 私が今まで扱ってきた食行の著作はもっぱら(1)の『一字不説の巻』でした。この(1)こそは食行の説く世界の基本であると私は考えています。確かにあと二つの著作と比較すると若干の思想的変遷はありますが、この三つの著作を貫くものこそ「食行性」といい得る彼らしさに他なりません。逆にいえば、この三つからはずれたものは、食行作と名乗っていても偽作であることになります。 では、『一字不説の巻』には何が説かれるのでしょうか。私はこの内容を三段十四科(三つの大見出しと十四の小見出し)に分けて考えることにしています。三段だけ挙げますと、(1)世界創成、(2)世界の在り方と「みろくの御世」、(3)伝説の再解釈その他、です。
 まず、「チチ」「ハハ」(実際はイ杓と同じく「角行系文字」ですが、ここではカタカナにします)という二人の神が富士山を中心に三層の地獄に囲まれた方形の世界を造りました。この二人は日本神話のイザナギ・イザナミがモデルとなっているようです。そして彼らの体から全ての生物、最後に人間が造られ、食物として米が与えられました。この神話が北欧の神話によく似ているという意見を伺ったことがありますが、他の神話に疎い私にはよくわかりません。ここでいう「人間」とは士農工商のいわゆる四民の人たちでしかありません。当時差別されていた階級・職業の人たちは仏教の六道に借りて修羅・畜生・餓鬼・地獄のものたちとして扱われました。江戸時代に生きた食行に人権とか平等という感覚は全くありません。そして、この世界は日本神話と仏教の持つ概念が並存しているのです。
 神代のあと、人間が世界を支配するようになって一万八千年経ち、元禄元年六月十五日に世界は「みろくの御世」になりました。「みろくの御世」はチチとハハの子である仙元大菩薩という神が人間の為政者(ここでは紀州徳川家です)に知恵を授けつつ永遠に統治するという世界で、その始まりは食行が十八才で富士山に登頂したときだというのです。しかし、食行がこれを書いたとき既に五十代も終わりに近いころでした。神の統治で良くなっているはずの世界は・・・。今はこのギャップが食行を考える上で大きな鍵となっているとだけ申し上げておきましょう。
 食行の世界はいくつかの宗教や伝説からのコラージュに満ちています。その断片は食行によって焼き直され、独特の役割を持って再構成されるのです。こうして食行の著作に描かれた世界は、現代のわれわれにとって非常に奇抜で理不尽なものに見えます。しかし、これらは彼にとっては真摯な「事実」であり、神のお伝え(命令・教勅)なのです。そのことを忘れて、現代的な考え方や合理性を用いて食行を考えるべきではないと思います。

○食行と富士講

 食行には妻と三人の娘がいました。そして、一家は火事で焼け出された時に転がりこんだ小泉文六郎という武士の敷地にそのまま住んでいました。彼は食行亡き後、残された家族の後見人となります。一方、富士山の登山口である吉田(山梨県富士吉田市上吉田)に田辺十郎右衛門という人がいました。この人は富士山の山中で水を売って生計を立てていた人で、食行が富士山に修行に来ていた際、宿を提供していました。吉田には御師(おし)という宿泊や入山の際の手続き(富士山は宗教的な聖地なので登山者をお祓いし、同時に入山料を徴収していました)をする人たちがいます。が、食行は夜中に大声で祈祷するため他の登山者に嫌われてどこの御師でも泊めてもらえず、その際田辺十郎右衛門が泊めていたようです。また、彼は富士山中に一人籠もる食行の死を看取った人でもあります。 さて、江戸時代から明治時代にかけて関東近県に爆発的な流行をもたらした富士講は、小泉文六郎と田辺十郎右衛門によって(少なくとも彼らが中心となって)、その基礎が作られたと考えられます。
 まず、江戸の小泉文六郎はおそらく人脈によって、富士山の神と食行の教えを奉ずる講(グループ)を作りました。彼らは月に数回、夜に集まっては祈祷し、富士山にも集団で登拝します。また、富士山の霊力を加持したとされる水を使って病気を治療し、快復したものを勧誘するということもしていたようです。田辺十郎右衛門は食行が死ぬ間際に説いた教えとして『三十一日の巻』を作りました。内容的には食行の思想とは全く相容れないものでしたが、わかりやすいので、暖簾分けを繰り返して広がっていく各地の富士講が備えつける教典として、食行の著作よりはるかに普及していきました。今でも『三十一日の巻』が写された巻物を講の宝物として珍重する講があります。また、田辺十郎右衛門は吉田でも江戸の富士講と同じような集団を組織していました。御法会講とよばれるこの講(現在は富士吉田市指定文化財)は、おそらく富士講としての行法(拝み方)を確立させていくための実験的なモデルケースだったのではないかと私は考えています。
 ともかく、「江戸八百八町に富士講八百八講、旗本八万騎に富士講八万人」と俗に言われたほど、富士講は隆盛しましたが、それを作ったのは食行の弟子たちです。よく、富士講の創始者が角行で、中興したのが食行であると言われますが、それは間違いです。なぜなら、食行在世中においてすら、「富士講」という概念はおろか言葉すらもなかったのですから。

○そして角行系宗教へ

 最後に、角行系宗教について申し上げましょう。従来、「富士講」といえば角行という人がつくったとされていました。角行とは、1600年前後にユニークな修行や表現を用いて独特の立場を築いた行者です。富士山の神を信仰し、人穴(静岡県富士宮市)という洞窟を拠点にしていました。もとは修験者であったようですが、彼の生涯や思想は半ば伝説的ですらあるほどにわかっていません。
 しかし、上にみたように富士講が(角行から数えて五代目にあたる)食行の死後にできたものならば、では食行以前からある角行たちの宗教は何と呼べはいいのか?実は・・・角行や正統の弟子たちが自らを何と呼んでいたか、それすらもわかっていません。「法家」という言い方が後にできますが(今でも人穴にある彼らの末裔は「富士御法」と名乗っています)、それがいつ頃からのものかもわかりません。つまり既成の呼び方では限界があるのです。そこで私は「角行に自らの起源があると主張する宗教」をひっくるめて角行系宗教と呼びたいと思います。当然この中には富士講も角行の正統の弟子たちも、明治になって富士講から派生した教派神道も含まれます。そこでまた細かく系統を考えなければなりませんが、それは機会を改めることといたします。

何かご意見・ご質問などございましたら、お手紙・メールなどをいただければ幸いです。メールの方がお返事は速く出せます。
メール
また、私のホームページ「富士講アーカイブ」では富士講・角行系宗教をさまざまな角度から取り上げ、研究のインフラ整備に貢献していきたいと思っています。怠惰な管理人ゆえまだまだ時間がかかりそうですが、暖かく見守っていただければ幸いです(近々失業にともなって時間ができるのでトップを改装する予定)。
http://homepage2.nifty.com/kakugyou/index.html

▼おわりに

 「この論文を読む前に」は以上である。実は「角行系宗教」について、まともに書いたのは「この論文を読む前に」が最初である。細かい定義自体、私自身がこれから行うべき作業である。角行系宗教やその中を生きた行者、そして信徒たちについて、できるだけ客観的で体系的な見方を提供できれば、と思う。ただ、2001年末からしばらくは史料の提供に専念することになろう。それも角行系宗教を解明するための足がかりとなれば、と思っている。

Update!(2001/11/10)
 文中で紹介した『一字』の神話について、「神の体から全ての生物、最後に人間が造られ、食物として米が与えられた」のではなく、『「チチ」「ハハ」の体から直に分けられたのは「にんげん」と「御ぼさつ(米)」のみで、他のものは、たんなる創造物であるはず』という趣旨のご指摘をさる方からいただいた。『一字』を開くに、

御藤山初より日本の地お五拾年のあいたにいさいのもの御こしらえ被為遊 それより又五拾年のあいたにいさいのもの御こしらえ被為遊 百年目に人間のたねと御ほさつのたねとГБ様之御身より御わけ被為遊・・・

岩科小一郎『富士講の歴史』(1983、名著出版)、p.501b,f.を元に富士吉田市史編さん委員会編『富士吉田市史』史料編第五巻 近世III(1998、富士吉田市)、p.33aを参照した。

とあるので、表現としてはご指摘の方が正しい。どうやら自らの論文にも書いたことを忘れて早とちりしたようだ。ご指摘を下さった某氏に感謝して訂正したい。