第十六講 食行身禄の和歌一覧(ver.1.0)

▼食行の和歌

 食行の著作には和歌が含まれることがある。それらを一覧しようとするのがこのリストの趣旨である。以前は『食行身禄Ё一切決定の読哥』(いわゆる『お決定の巻』)に収録されているものだけであったが、『お添書の巻』と呼ばれる無題の食行の著作に含まれる和歌も追加することにした。はじめてこのページを書いた2002年当時、『お決定の巻』の自筆本を見ないままだったので、内容もそれに沿っている。今、私は『お決定の巻』自筆本を見ているのでそれを反映させたものにすべきかとも考えたが、それには『お決定の巻』を丸ごと翻刻せねばならないので、今はごく一部を手直しするだけに留めたい。

★食行身禄Ё一切決定の読哥・和歌一覧(ver.1.21)

▼おうた

 講堂では何度か「お伝え」と呼ばれる富士講の勤行用の教典について取り上げている。そのお伝えに種々あれど、特に後半欠かせないものが食行身禄の和歌、即ち「おうた」であり、十五首を取り上げるのが通例である。これらは食行が享保十六年の登山をレポートした『食行身禄Ё一切決定の読哥』に収録されている七十余首の和歌から採用されている。この著作は『お決定の巻』と通称されるので、ここではそのように呼びたい。『お決定の巻』は食行が享保十六年に行った登山の話を軸にして詠んだ歌を並べた、歌集的性格を持つものである。ただし、私はこれを純然たる歌集だとは考えておらず、大切な部分はむしろその散文にあると思っているが、とりあえずここでは擱いておく。
 「おうた」と呼ばれる食行の和歌は富士講の中で「お伝え」を通じて膾炙したと思われる。また、「お伝え」のみならず、七十余首を折本に記したものもあり、これもまた携行して事あるごとに詠唱できるようにしたものと思われる。その歌の一つ一つに文学的な味わいがあるとも思えないが、第十七講で掲げた港区郷土資料館所蔵のお伝えで「有難や尊崇や」といわれるように、元祖(食行はこのように呼ばれる)の教えを直接に伝えるものとして尊ばれた。ここでは食行以外のものも含めると八十余りにもなる『お決定の巻』収録の和歌をリストし、お伝えのみならず富士講や食行の研究に資してみたいと思う。

▼『お決定の巻』をめぐる文献上の事情

 『お決定の巻』はその歌集という性格から、数奇な運命をたどったテキストである。和歌ごとに解体され大部分が失われた結果、完全な状態で現存している自筆本は管見の限り知られていないようである。この事情は岩科小一郎氏の『富士講の歴史』に詳しい。

 東京上野の国立博物館図書館に参行写しの『一字不説の巻』が収蔵されている。その巻末に参行は「一行こと御かりもの差上候砌り、食行の御巻物並に御双紙等、まん事取集め手前にもちかへり、細かに切りはなし、同行に譲り渡候由。(中略)」
 一行の死が寛政元年、「由緒の巻」が寛政二年。参行のいうことは嘘ではないようである(後略)
岩科小一郎『富士講の歴史』(名著出版、1983)、pp.492-493

 つまり、食行の三女・一行ことはなが死去した際、姉(次女)のまんがはなの持っていた父の著作を持っていってしまい分割して富士講の人たちに譲って(というより売却したという方がよいだろう)しまったというのだ。ここで岩科氏が言う「由緒の巻」とは早い時期に富士講の研究をしていた伊藤堅吉氏が所蔵している食行自筆の断簡のことで、要するに『お決定の巻』の断片であるというのが岩科氏の結論である。おそらくこの主張は支持していいと思われる。ちなみに、この参行の『一字不説の巻』は現在行方不明になっている。他にも数点富士講関係のものと思われる文書があるけれども元は一橋家の旧蔵で、おそらく東博内の倉庫で所在がわからなくなっているのではないかということであった。先日もこのテキストをタイトルだけで『三十一日の巻』の写本と勘違いしたある人が『三十一日の巻』の写本ということで自ら作成した写本所在リストに加えていたが、それは岩科氏の記録をご存じないところからくる誤認である。
 さておき、岩科氏は結局『富士講の歴史』に翻刻(pp.513a-523a)を収録するに当たって伊勢川上(三重県美杉町)にある食行の生家にあった写本テキストから復元を試みたとしている。ただし、この写本が完本と認められるほどのものであるか、私は実物を見ていないので断言はできない。岩科氏によれば、三分の一にあたる散文部分は富士吉田市の郷土博物館にあるとしているので、都合岩科氏は二種の自筆断簡と一種の写本(断簡?)を見ていることになる。
 これとは別に『お決定の巻』の翻刻と称するものが二つ知られている。

 (1)鳩ヶ谷市文化財保護委員会編『不二道基本文献集』(鳩ヶ谷市の古文書第4集、鳩ヶ谷市教育委員会、1983)、pp.50b-55a
 (2)富士吉田市史編さん委員会編『富士吉田市史』史料編第5巻、近世3(富士吉田市史、富士吉田市、1997)、pp.39b-42b

 どちらも岩科氏の翻刻に比べれは部分的な断簡の翻刻で、前者は鳩ヶ谷市教育委員会所蔵霜田家文書にある写本からのもの、後者は渡辺文邦氏という方の所蔵のようであるが、写本の断簡か自筆の断簡か判然としない。富士吉田市は何故郷土博物館所蔵の自筆を市史の史料編に掲載していないのか、考えてみれば不思議な話である。もしかすると、岩科氏がいう博物館所蔵の自筆本とはこの本のことで、何らかの理由で所蔵者の情報が誤ってしまった可能性もある。もし、渡辺氏の所蔵本が自筆で岩科氏が郷土博物館の所蔵というものと同一であるなら、伊藤氏のものと合わせて二つの自筆断簡が現存しているということになる。また、伊勢川上のものと鳩ヶ谷のものという写本の存在も明らかになる。いずれにせよ、『お決定の巻』の本格的な研究はこれらを網羅する必要があり、原テキスト復元以前の問題となる。
 以上見たところからとりあえず完本(原テキスト)に最も近いと思われるのは岩科氏の復元テキストだが、実はこのテキストは途中食行の読み歌でないところが省略されてしまい、テキストクリティークに耐えうるものとはとても言いがたい。岩科氏に文献学的・書誌学的な素養が皆無だったことを悔やむより他にない。

▼和歌一覧解説

 では、和歌一覧の解説に入りたい。もともとこの和歌一覧は2000年2月に@niftyにあるSIGの一つ「山の展望と地図のフォーラム」(FYAMAP)データライブラリ3番にて、ver.1.0として公表したものである(フォーラム内に入ることができるのは@nifty会員のみ)。うち、ver1.0はno.354としてアップされていたが、今回のver.1.1により絶版(削除)とした。ver1.0はMS-Excel2000で作成したxlsファイルを主体とし、MS-Excelを使えない環境の人用にtxtファイルとして出力したものを同梱していた。
 底本は『富士講の歴史』所収のテキストをもとに、一部を『近世III』から補った。
 便宜的に一々の和歌にはコードをつけ、五七五七七の句ごとに分割した。最後の列は備考である。コードのアルファベットには以下の属性がある。

 J・・・食行身禄作
 T・・・田辺十郎右衛門作
 O・・・その他の人たちの作
 U・・・食行長女うめの作
 K・・・食行が改作したもの

 とはいえ、TとUは各一つしか存在しない。Uは、文中に同じものが二度現れるが、それは「くりかえし」として重出を避けた。また、Oは底本とした『富士講の歴史』によれば十三首あるはずだが、岩科氏がまとめて省略してしまったため、その部分の一部八首を、もう一つの底本である『近世III』より補い、残りはreservedとしておくにとどめた。なおT、O、U、の各歌には作者名を備考に付した。作者については、『お決定の巻』にあるとおりの表記にしたがった。例えば「つきかげの」は法然坊源空の有名な和歌(浄土宗宗歌に指定されている)であるが、表記通りに「法念」とした。
 『お決定の巻』の文中に、三首の著名な和歌を食行が原歌を挙げながら改作(これをいわゆる「本歌取り」とみなし得るものかどうかは後考を待つ必要がある)するくだりがある。それを比較したものがKである。上段に改作後、下段に改作前に挙げている歌を並べた。一般に知られるそれら原歌とは異なる箇所があるが(例えば山部赤人の歌にはある「たごのうらに」の「に」がない、など)、それは『お決定の巻』から引用しているからである。
 E1は文中にあるのではなく、『富士講の歴史』をみる限りでは、末尾に南無阿弥陀仏という名号のわきに小さく付してあるだけらしい(※参照)。

 表記については、検索の便などをかんがえてすべて平仮名で表した。基本的に、『富士講の歴史』あるいは『近世III』の表記に忠実に平仮名を用いた。底本の異なるOシリーズとそれ以外で雰囲気が大きく違うのはそのためである。ただし、『富士講の歴史』と『近世III』で「を」が用いられている場合は「お」と変えた。食行は専ら「お(於)」を用いて「を(遠、越、乎、悪、緒、尾)」を用いなかったようなので、『富士講の歴史』で「を」が用いられている場合は岩科氏のケアレスミスであると判断する(『富士講の歴史』所収のテキストにおけるケアレスミスは非常に多く、かつ致命的なものも多い)。また、『近世III』を用いた部分で「を」が使われている箇所は、『富士講の歴史』所収の『決定』冒頭の影印(p.513上)をみる限り、『富士吉田市史』の翻刻者が「於」のくずしを「を」としてしまったらしいことが看取される。ということはこれらも「お」とすべきだろうと思う。将来、岩科氏や富士吉田市史編さん委員会の翻刻者たちが用いたテキストを閲覧した際に正確な運用を調査したい。他に『富士吉田市史』と『富士講の歴史』との間で「ゑ」と「え」、「は」と「わ」などの混用が疑わしい箇所が数多くあるが、それらについてまで断言できる能力を持ち合わせていないので、今はそのままの平仮名表記をとりあえず守ることにする。
 また、意味を誤って読まれてしまいそうな箇所は備考に底本にある漢字交じりの表記を示した。
 J1の備考にある名号は歌の末尾につけられているものである。
 J50までは文中によれば享保十六年の「一切決定」の登山の際のもので、J51以降は東国へ済度に行ったときのものとしている。またOとして分けた食行の身寄りによる和歌はは食行が六十一才の祝いとして贈られたものとしている。

▼おわりに

識者の叱正やミスの指摘などは喜んで受け付けるのでご指摘願いたい。ただし、作者としてもこの状態で満足するつもりは毛頭ない。『お決定の巻』は、いずれテキストクリティークに耐えうる形で公開させたいと思っている。その過程でこのリストがより完全さを増していくことを祈るばかりである。
 ver.1.0のアップ・削除について、FYAMAPスタッフの方々にお世話になった。記して感謝申し上げたい。

 第一句第二句第三句第四句第五句備考
J01さんごくのひかりのもとおたづぬればあさひにいふひふじのごくらく南無阿弥陀仏(※)
J02みるにあかぬゆきうちかかるふじのやまただしろたいにこころふかくも
J03ふじのやまのぼるはらいのゆきこおりちよよろづよもそらにしられて
J04ふじのやまほのぼのとあくよろづよのみちのこころもみねのいたけさ
J05かえるみのしるしとばかりのこしおくつきせぬふじのみねのことのは
J06あらたなるみまいにたちていにしえのいせのかわかみみるぞうれしき
J07うちそとのやつやつのみづのみなかみつきせぬみよのふじのみたらし
J08ふじのやまみねにことのはのこしおきひろきすそののすえのよまでも
J09このなかのはらよりよものくもはれてみえにけるかなやまもふじのね
J10ふじのやますそのにさてもきこえなるそのおくひろきしらいとのたき
J11ふじのやまのぼりてみればなにもなしよきもあしきもわがこころなり
J12ふじのやまよきもあしきもなすことわいくよへるともみにぞきたりし
J13ふじのやまのぼりてぞみよあらたなるうえわしらゆきうちのけんこん
J14うのすがらかざるこころおふりすててたまのひかりのふじのやまもと
J15いつまでもこころやわらぐふじのやまただひとすじになむあみだぶつ
J16ひとすじにそのおくみればふじのやまたまのひかりのあらたなりけり
J17とふななつつきたちまちのうつりけりまたゆくとこもふじのしろたい
J18とふやつのいまちえつきのふじのやまただひとすじにたまのひかりお
J19みてもしれとふここのつのふじのやまたまのひかりおちよよろづよも
J20はつかよのつきよりふじのくもはれてにしやひがしやきたやみなみや
J21ふじのやまくもきりはれてよもまでもたまのひかりにあふぞうれしき
J22あまてらすそのもとみればふじのやまのりのおしえのちよよろづよも
J23みねのいしはるなつあきのふゆまでもかたくしれとかふじのやまどり
J24つきもひもみなひとすじにねがふならあくとはなれてなおてらすらん「名を照すらん」
J25ひとはただわがみおさげてさきおあけみるしろたいのふじおしるしに
J26さきたつもあとにのこるもいまゆくもただしろたいのふじにのこして
J27おしえにもたまのありかのふじのやまねがふそのみもひかりそうらん
J28ふじのやまよものくもきりふきはれておいきあらたにちよやよろづよ
J29ふじのやまはたちがなかにかどたててにしやひがしやきたやみなみや
J30ふじのやまこころのくもりうちはれてたまのひかりのほとぞうれしき
J31ふじのやまくもるこころのいまはれてちよにやちよにみねのしろたい
J32ふじのやまよものすそのもくもはれてすえのよまでもしるぞうれしき
J33ふじのやまおしえのごとくあらたにぞまつりおこのふちよよろづよと
J34しきよくのふたつおみればみぎひだりよきもあしきもみなみにまいる「みな身に参る」
J35しきよくおはなれてぞみよふたつなきこころのうちのたまのひかりの
J36ときおえてきみのこころのまいりあふみちあらたまのふじのやまもと
J37ふじのやまみつのこころおてにふりてぢきのおしえおちよよろづよと
J38たてよこもちよよろづよとおるにしきにしまるつきのけふのことぶき「京も」(※)
J39くさもきもなべてのかわのうろくづもしゃうあるものとこころしてすめ
J40ものごとおひとつかわればふじのやまいくよへるともいでいりのあだ
J41すえのよのいでいりみればおそろしきなしおくことはみなふじのやま
J42ごくらくおいづくとみればわがみなりらくにぞくえばこころうれしき
J43あらそいわわがいるところさらになししもなるひとおかみえかみえと
J44まことかなみちあらたまのみよとなりせきもとのあくふじのすそはら
J45さんごくのもとのこおりおとりそめていまぞおさむるふじのしろたい
T01ふたつなきおしえのじひはひのひかりくもふきはらふみねのゆきかぜ田辺十郎右衛門
J46とかえりにみねのくもきりふきはらふみまめでたさとなおもなたてて「名おもなたてて」
J47ふつかよのみなしろたいのふじよりもなえあおそらにとりてうえける
J48さんごくおみなしろたいのみになしていまあらたまのふじのやまもと
J49ふじのやまみなしろたいのあおぞらにちよよろづよとなおのこしおく「名おのこしおく」
J50ふじのやまみざるきかざるいわざるもただひとすじにたまのひかりよ
J51ふじのやまみなさんごくおあらたまのひがしえいでてにしのおくまで
J52みるにいまななつのほしのあまのがわあさわかれてわよもえひらけき
J53くもりなくみなさんごくえすみわたるとそつてんにぞなおのこしおく「名おのこしおく」
J54さんごくおてらさせたもふそのもとえあさいきあひていのるうれしき
J55さんごくにあたりしものはなにもなしよきもあしきもみなからふくろ
J56ふじのやまこのかりものおかえしおきひかりのもとえなおもなたてて「名おもなたてて」
J57ふじのやまなおさんごくえひろめおきとそつてんにてみるぞうれしき「名を三ごくえ」
J58かけわけてしたにあるとわそこのつきここにあるとわたれがしるらん
J59かわかみのたまのひかりおひとりでてとそつてんにぞみはまいりける
J60ふじのやまあらそふこともいふことものぼりてみればあらわれにけり
J61ひとわただしたよりのぼりいつとなくふじのやまえわまことたかくも
J62たづねきてこのかきものおもちいでててんしてんかえひらかせてみよ
J63ふじのやまおしゑのごとくこのやまのぬしいえにこそみわまいりける
J64しんがんおひらいてみればふじのやまよしあしともにあらわれにけり
J65いまよりわみつのつるぎでいかぬなりまことのみちによわみろくなり
J66めにみえぬしんのたたかひしめすにわまことのみちおふじのやまもと
J67ふじのやまきりんいでけるしるしにわみまめでたさのこころやすくと「三万目出たさの」
J68あまがみのそのやくとてかさんごくおみなあらたまのとそつてんまで「天神」(※)
J69ふじのやまみなさんごくえまことにてみまめでたさのこころなりけり
J70ひとりすむまことのつきおながむればくもきりはれてみねのかぞしる
O01にしひがしみなさんごくへすみわたるたゞひとすじによものひらけさ食行妻(※)
002すみわたるひかりのほどのこゝろしれふかきやまじのおくのひとまでうめ
O03るりのつぼみなさんごくゑすみわたるすゑのよまでもみなきくのはなまん(※)
O04ふじのやまみなしろたいにすみわたるすゑのよまでもなおとゞめけんはな
O05あらたなるみまいにむかふいほりよりすゑのよまでもなおとゞめけん小泉(文六郎)
O06さんごくにひかりにほゑるにしひがしみなみやきたもふじのしろたい小泉
O07とかゑりにとかゑりにふるまつもいまふじおたよりのよろづよのいろ松野屋善兵衛
O08すみわたるひかりおみせてよろつよのふしのしろたいよものひらけき小泉妻
O09ふじのやまたゞひとすじにすみわたるすゑのよまでもそらにしられし小泉伊八郎
O10ふじのやまねかふそのみをうちかけてたゞしろたいにこゝろふかくも小泉こん
O11ふじのやまちよをこめたるあらたまのひかりにみせてみねのしろたへ小泉嘉平次
O12ふじのやまちよをこめたるあらたまのひかりにめくるひろきすそはら小泉嘉平次
O13なつふかきねがひもはれておくにいりまことのみちもすゞしかるらん永田長四郎
O14ふじのやまみなさんごくへすみわたるみまめでたさのこころなりける小林伝左衛門
O15ふじのやまそのほどしれぬことなるおかたりなぐさめすえのよまでもうめ
K01このこころかわらでとしのつもれかしたとえいのちわかぎりあるとも(小野)小町
 おもかげのかわらでとしのつもれかしたとえいのちわかぎりあるとも(※)
K02たごのうらうちいでてみよしろたいのふじのたかねにゆきぞふりつつ百(人)一首
 たごのうらうちでてみればしろたいのふじのたかねにゆきわふりつつ
O15O15のくりかえし
K03いきくれでこのしたかげおやどとせばはなやこよいのあるじならましただのり(平忠度)
 いきくれてこのしたかげおやどとせばはなやこよいのあるじならまし
K04つきかげのいたらぬさとわあらねどもながむるひとのこころにかすむ法念(法然)
 つきかげのいたらぬさとわなけれどもながむるひとのこころにぞすむ
E01すみやかにはなのみやこおたちいでてこころやすくもいそぐひとばて念仏の割書?(※)

※J01、仏名を歌末に付す。ただし、実際の富士講ではこの仏名を唱えない。
※J38、岩科本「京ちよよろづよと・・・」。岩科氏は「京」に「たてよこも」とルビを付す。典拠確認できず。
※J68、岩科本は「天神」に「あまがみ」とルビをふる。竹葉山人「富士之奇績」(大森見勢松、1923)は「あめ神」、自筆本は単に「天神」。「てんじん」とする。
※O1、自筆本「よものひらけさ」。東北大学蔵本では「よもひらけさ」。写者が一字落としたらしい。
※O3、富士吉田市史はこの句を「なひのつぼみる三ごくゑ済渡るすゑのよ迄もみなきしのはな」とする。『富士講の歴史』に当該部分の写真を読む限り、また東北大学蔵本を見る限りでは上のように読める。おそらく未熟な翻刻者が「奈」と「流」や「し」と「く」の区別をつけられなかったのだろう。
※K1、原歌第四句「よしやいのちは」。
※E01、自筆本には「南無阿弥陀仏/(以下割書程度の字の大きさで)これお歌によみおき申候/すみやかに・・・」と書かれている(p.523a)。

★無題の著作(いわゆる『お添書の巻』)・和歌一覧(ver.1.0)

▼簡単な解説

 『お添書の巻』と後世の富士講がいう食行最後の著作にも和歌が収録されている。『お添書の巻』の翻刻は現状で3つしか存在しない。これは『お添書の巻』が強い差別や侮蔑を含んだ調子で書かれているからであって、これらのうちでも伏字など無く翻刻できたものは一つしかない。以下の(3)がそれである。

 (1)岩科小一郎『富士講の歴史』(名著出版、1983)、pp.523b-535a
 (2)鳩ヶ谷市文化財保護委員会編『不二道基本文献集』(鳩ヶ谷市の古文書第四集、鳩ヶ谷市教育委員会、1983)、pp.41a-48b
 (3)浦和市総務部市史編さん室編『浦和市史』第3巻、近世史料編4(浦和市、1985)、pp.511a-522a

 ただし、今は和歌のみが欲しいのでこれ以上『お添書の巻』には踏み込まない。『お添書の巻』に納められている和歌は5首のみである。ここでは上の『食行身禄Ё一切決定の読哥』に含まれる和歌と区別するため、「JO-」というコードを用いる。基本的には自筆本を参照している岩科本によった。

 第一句第二句第三句第四句第五句備考
JO-01たづねきてこのかきものおもちいでててんしてんかゑひらかせてみよ
JO-02ふじのやまおしゑのごとくこのやまのぬしいゑにこそみわまいりける
JO-03ごくらくおいづこととわばふじのやまむそぢあまりにみろくにうめつ
JO-04ふじのやまごしきのくものむこふにてみわうちのつていままいりける
JO-05ひとりすむまことのつきおながむればくもきりはれてみねのかぞしる

※JO-03、(2)(3)ともに「六十あまりに」。(2)「いづくととわば」。