第二十二講 食行身禄年表と彼の世界観要約(未完成)

▼食行身禄年表

 戦略上食行身禄についてここではあまり取り上げない、というのが基本的なスタンスである(参考・第十四講)。が、今回また食行の話題をするのは、最近富士講や角行系宗教といった方向に向かってばかりで、やや忘れ気味になっている食行について復習したかったからである。食行身禄の生涯を表にまとめた試みは管見ながら今だ見ないので、公になるものではこれが初めてだと思うが、実は八年ほど前にある非公式な場で一度発表している。ただし、今見返すと問題のある点も多く、例えば『一字不説の巻』の成立を享保七年(1722)から九年かけて書いたという「伝説」を鵜呑みにしていたりする(このエピソードが虚偽であることは拙稿「『一字不説の巻』のタイトルと序文」参照のこと)。また、これを打ち込んだワープロ原稿(シャープの書院で作成したもの)も紛失してしまい、配布用のコピーでしか見ることができない。ここで新しくHTMLの形で作り直して現時点での成果をも盛り込みたいと思う。
 食行の生涯について、五十代より前のことはまるでわからないのが正直なところである。食行の著作は享保十四年(1729)の『一字不説の巻』が知られている最初のもので、当時食行は既に59歳だった。確かに彼が生い立ちを語っている箇所もあるが、疑いを持たざるを得ない部分も多くて(本人の言とはいえ)そのまま信用しがたい。
 年表の情報源は主として食行本人の著作からである。『一字不説の巻』と『食行身禄Ё一切決定の読哥』については岩科小一郎『富士講の歴史』(名著出版、1983)から、いわゆる『お添書の巻』については、浦和市総務部市史編さん室編『浦和市史』第三巻近世資料編4(浦和市、1985)に『御伝書』として収録されている、飯行三次による写本から引用する。彼は小谷三志の弟子である。『富士講の歴史』に収録されている『お添書の巻』は越後屋で知られる三井家への中傷をそっくり削除されており、研究に用いることはできない。ただし食行の著作に由来しない記載も若干ある。それらについては明示する。『一字不説の巻』の序文は田辺伊賀と同和泉、『三十一日の巻』は田辺十郎衛門の作である。『一字不説の巻』成立のエピソードなど信じられない部分もあるが、特に疑う必要の無いところは引用した。

西暦元号年齢(数え年)記事
1671寛文11年当歳

正月17日伊勢国一志郡川上村小林家の三男として出生〔食行が生家に当てた手紙・ただし生月日には確証がない〕

1678延宝6年8歳大和国宇陀郡の小林家(親類)の養子となる〔一字序文・三十一日の巻〕
1681天和元年11歳「なん行苦行いたし罷有候所に少々こころにさわる事御座候得て」〔一字序文〕実家に帰る
1683天和3年13歳

「武州江戸本町三丁目の中ほどの親類ども方」へ奉公に出され、「いろいろの商売」をする。〔添書〕

1687貞享4年17歳月行ИЛに弟子入り。信仰生活に入る。〔お添書〕
1688元禄元年18歳6月15日初登山?食行はこの日を以て神政「みろくの御世」の始まりだとする。〔一字〕
1696元禄9年26歳仙元大菩薩から「しやうじんは御ゆるし被下候」とのお伝え(神告)を得る。〔添書〕
1699元禄12年29歳

12月26日から翌8日まで上京。「くわんぱく様」の門前で「みろくの御世お御つぎ被下候やう」陳情するが、相手にされず。以後14年まで合計三度陳情するが、やはり相手にされず。ただし、食行本人がそのように書いているにも関わらず、この記事の真偽は問題。〔一字〕

1702元禄15年32歳

「けつさいしやうじん仕り夫婦ともにまんごう御ゆるし被下候との御伝え」を受ける。このときまでに結婚?相手はぎん?〔添書〕

1714正徳3年44歳長女梅誕生。月行の娘を養女にしたという説あり〔小泉文六郎覚書〕
1717享保2年47歳月行ИЛ死去。次女まん誕生。
17?????年??歳この頃家財を親類に譲り油の行商を始めたらしい。〔三十一日の巻〕
1722享保7年52歳神告を受け食行身禄Ёと名乗る。〔小泉文六郎覚書〕
1724享保9年54歳三女はな誕生。
1725享保10年55歳江戸に大火。水道橋の住居を焼かれ小石川の転居したという。
1728享保13年58歳小泉文六郎が弟子となる。
1729享保14年59歳10月『一字不説の巻』成立。
1731享保16年61歳この年の登山を「一切の決定」と名づけ、コノシロコハダ解禁の高札を立てる。この年までに田辺十郎衛門が弟子となる。
1732享保17年62歳

3月巣鴨で火事。巣鴨仲町に転居していた食行は焼け出され、駒込の小泉文六郎邸に避難。
5月、日光・会津・宇都宮・鹿島へ「済度」と呼ぶ旅行をする。
7月、前年の登山の様子と自作の和歌を交えた『食行身禄Ё一切決定の読哥』成立。

1733享保18年63歳

前年末から今年初頭にかけて(?)いわゆる『お添書の巻』成立。入定を予告。
2月、伊勢の実家に相続を任す旨の手紙を送る。
4月、田辺十郎衛門に入定予告の手紙を送る。
6月10日、江戸を出立。14日吉田着。15日登山。弟子の永田文四郎に手紙を持たせて下山させる。頂上での入定を希望したが大宮の役人に阻止されて七合五勺にて仮の厨子を設営、断食に入る。
7月13日、田辺十郎衛門によって厨子が石で封じられる。17日までの生存が確認されている。