第二十三講 川上に食行生家を訪ねて(一)

▼食行の出自

 食行身禄(1671-1733)は伊勢国一志郡川上村(現・三重県一志郡美杉村川上)というところの出身である。寒村の農家である小林家に三男として生まれた彼は、十三歳で江戸の親類に丁稚として預けられ、十七歳で「月行系」の祖である月行と出会って私が「角行系宗教」とよぶ富士信仰に入信する。
 食行は六十三歳で富士山で自殺を図るわけだが、半世紀もの間江戸人だった彼がそれまで実家と没交渉だったか否か、今ひとつ判然としない。自殺直前に手紙と著書を送ってはいるものの、それ以外にやりとりがあった痕跡が認められない。けれど、板橋の永田長四郎のような同郷人が近くにいたことを考えると、全く何も連絡がなかったとは考えにくい。少なくともその手紙以前に『一字不説の巻』を送っていたことは確実である。また、彼は小林姓であるが、伊藤伊兵衛と名乗っていたことは手紙(翻刻は岩科小一郎『富士講の歴史』-名著出版、1983-、p.175f.参照)にもあるとおりで、どのような必要があって偽名を公然と(?)名乗っていたかも定かではない。ともかくわからないのところの多い食行であるが、それでも田辺十郎右衛門たちによってつくられた『三十一日の巻』などによって、記載の真偽はともかくとしてその出自は後世の富士講にも知られていた。
 富士講全盛の時代となって、川上の生家を訪れた最古は小谷三志とその一行である。彼らの行程その他は岡田博氏による鳩ケ谷市文化財保護委員会編『伊勢川上開道記』(鳩ケ谷市の古文書第五集、鳩ケ谷市教育委員会、1979)に詳しいが、記録上彼らによる最古の川上行きは文化十年のようである。彼らは来るたびにさまざまな写本をここに残してきた。その内訳は大部分が小谷三志一門、あるいは彼が師と仰ぐ参行禄王のものであって、食行の著作の写しもあるもののそれはごく一部でしかない。
 その後、一般的な富士講も川上を訪れるようになり、祭具などを奉納し、また食行の大きな年忌には川上詣も行われた。後で登場するが、小林の血を引き生家に今も住んでおられる久保チエルさんには、かすかに幼少の頃(昭和8年)に行われた食行二百年祭の記憶がある。その時は四十枚からの布団を近所からかき集め生家に宿泊する参詣の道者に提供したという。その後、第二次大戦を経て、富士講が漸滅していく中で道者たちは来なくなったが、食行生家やその文書類は多少の変化があったものの概ね今に伝わっている。

▼美杉村へ

 私が川上に行こうと思ったのは、仕事を辞めてまとまった時間ができたことが大きい。また、『一字不説の巻』の研究を一区切りつけている私が食行研究の次の段階に進むには『食行身禄Ё一切決定の讀哥』(いわゆる『お決定の巻』)が必要だったが、食行の娘であるおまんが自筆本をズタズタに解体してしまっており、表紙とごく一部しか伝存していない。ぜひとも完全かせめてそれにちかい本を探さねばならなかった。岩科氏は『富士講の歴史』にここにある「写本」から「復元」した翻刻を収録しているが、影印で見る限りそれはどうみても食行の筆跡にしか見えなかった。岩科氏がなぜこれを写本と呼んだのかは定かではないが、これが自筆であるにしろそうでないにしろ、『お決定の巻』の研究にはここで所蔵する本が必須だった。
 食行が実家に宛てた手紙によれば、彼は『一字不説の巻』と『お決定の巻』といわゆる『お添書の巻』を送っていたらしい。このうち、『一字』は小谷三志が冒頭に文を書き足した上、実家に宛てた手紙と一緒に近代になって持ち去られ、富士山本宮浅間神社に納められてしまった。『お添書の巻』は伝わっていないものの、小谷三志がその写本を作っていることから既に彼らが来た時には伝存していなかったものと思われる。小谷三志は食行のものに関して、手紙を除いて、そこに無いものの写本だけをつくったらしい。現に川上に残る文書の中に、確実に自筆本があった『一字』と『お決定の巻』の写本は無い。また『お誕生の巻』とよばれる食行の書き物とされるテキストの写しもあるが、私はこのテキストについて食行真作か否かは保留にしておく(たぶん違うと思うが)。実物があるはずの川上への手紙の写しがつくられた理由についてはわからない。富士山本宮浅間神社に納められたはずの手紙は岩科氏も見ていないようで、正直なところ今も存在するのか否かコメントしかねる。ただ、手紙はその性質上川上にしか存在しないものだから、そこに理由があるのかもしれない。
 ともかく、私が田川敏夫氏に食行生家の方々へ紹介の労をお願いできないかと手紙をしたためたのは2003年の5月である。田川氏は元三重県教育長にして現在は松阪大学の名誉教授である。田川家は川上に代々住み、敏夫氏の父君である正男氏は地元の川上中学校で教鞭をとっておられた。校長まで務め退職された後、地元に残る食行の遺跡について調べ、十年かけたその成果を原稿にしていた。敏夫氏は病床にある正男氏のためにその原稿を整理して、正男氏が亡くなる直前に自家出版にまでこぎつけた。それが『食行身禄Ёの生涯』(私家版、1981)である。私はこの本を八年ほど前に直接敏夫氏から分けていただいた。その際添えられた手紙に「こちらにおこしの機会があれば紹介の労はとらせていただきますので御連絡ください」とあり、そのご好意に甘えてみることにしたのである。
 月日は流れて、突如田川氏から電話をいただいたのはお盆を過ぎてからである。いつにするかということで、たまたま奈良にある天理大学で学会が九月初めにあるからそれに合わせること、前後どちらにするかということなので学会の前に訪問したいということで話が決まっていった。川上までは田川氏が運んでくださるということだったので、その後宿をどうするかが最大の問題だった。川上には辰巳屋という旅館があったものの、電話してみると何年か営業していないという。それよりは離れた上多気に結城屋という旅館があり、最寄の伊勢奥津駅までは送迎してくれるということだったのでそこに決めた。この選択は結果として正解だった。
 9月2日朝。前日から夜行を乗り継いで伊勢中川駅という小さい駅で田川氏と落ち合う。クルマに乗せていただき走り出すと周辺の大雑把な解説をしてくださった。日本最古という墨書土器が出土したように縄文期の遺跡が多いこと、食行といえば「小さい頃に江戸に出て商人として成功した人」というイメージが強く、三重ではまるで知名度がなく老人がわずかに知る程度だということ、山林業が盛んだったけれどもはや産業として成り立たないことなど。クルマはのどかな田園風景から次第に遠景の山が近くなり、美杉村に入ったときには既に周囲を山に囲まれていた。
 美杉村役場に到着。役場前にある伊勢八知駅の待合室に貼ってある美杉村の地図を見ながら周囲について教えていただく。役場に入ると「今から村の教育長に会ってもらう」ということだが、たまたま席をはずしているようで、その間に村長と面会した。後で知ったことだが、この村長は結城さんといい、泊まることになっている結城屋のご主人だった。村長さんはあまり食行に関心が無いようだったが、美杉村が津市と合併することなどを聞く。村長室を辞して再び教育委員会へ行くと教育長の斎藤昭久氏と会う。斎藤家といえば、広大な山林をもつ上多気の大地主である。昭久氏は前当主の弟で分家にあたる。斎藤家は実行教の信徒である。美杉村の上多気は実行教の信者が32軒あり、結城屋の斜向かいに彼らの教会が建ちそこが拠点となっている。上多気に信徒が集中しているのは、斎藤家が檀那寺とケンカして実行教に入信した時に有縁の家がまとめて加入したからだという。だから美杉村全体でも実行教徒が集まっているのはこの上多気だけである。今でも彼らは神葬祭である。十年ほど前までは富士登山もしていたが、高齢化で行われなくなったという。この斎藤本家にも小谷三志をはじめとする不二道の人たちによる写本があるが、今回は見ていない。
 役場を後にすると、川上より先に多気に向かう。もともと美杉村は(もっともこの村自体七つの村が合併したものだそうだが)北畠氏が拠っていたところで、今でも霧山城という山城の跡が北畠神社の裏手の山に残っている。この神社自体北畠氏の城館の跡で、八年にもわたる発掘が今も行われており、80メートルにもなる当時の石垣が確認されている。また細川高国によるとされる庭園もあり、織田信長が攻め込んでくるまではちょっとした街だったらしい。また、ここは伊勢本街道という伊勢と長谷をつなぐ宿場町で、昭和初期以前に建ったような建物が並ぶこの街のいたるところにその痕がみてとれる。つまり美杉村を文化的に理解すると北畠氏の居城だったいうことと伊勢との往還を結ぶ宿場町という要素が濃厚であって、食行だの富士講だのがさして問題にもされないのはけだし当然なのだ。

車窓からみた美杉村 伊勢本街道の説明版
車窓からみた美杉村伊勢本街道の説明版

▼川上にて

 いよいよクルマは伊勢奥津駅を過ぎて川上へ入る。川上周辺を国土地理院の地図でみるとこのようになる。地図左側、非浦と相地というところがそれである。この先、クルマが抜けることはできず、本当につきあたりとなる。まずは相地にある食行生家に行く。生家のある辺りにもはや平地は望めず、生家も谷川の斜面に建っていた。四半世紀前に撮られた『富士講の歴史』にある写真となんら変わっていない、黒トタンの平屋建てである。ただし、この家全てが食行生家のままではない。長い間には相応の変遷もあり、今に伝えるのは黒く塗られた八畳の二間と縁側のみである。ここで私は現所有者の久保文良氏と奥さんのチエルさんに会う。
 ここで、小林家について述べておく必要があるだろう。小林家はその屋号をゼンタ乃至ミロクという。生家裏の山をミロクヤマ、そこを流れる谷川をミロクダニ、そして前行正古の墓地があるあたりをミロクダイラと呼んでいるように、かつては裏山一帯も小林家の所有であったが、先代・先々代が病気がちで手放していったという。川上一帯は雲出川に面した急な斜面を利用した茶栽培やわずかな水田による農業を生業としていて、小林家も例外ではない。川上には近世初期から茶が移植され、ここで栽培される茶は「川上茶」とよばれて伊勢茶の一つとして有名だったらしい(『美杉村史』上-美杉村役場、1981-p.499ff.他)。田川氏によれば「子供の頃は川には泳げるほど深い渕があり、よくあそんだものだ」ということで鮎なども釣れたらしいが、水量も減ってそういうこともなくなった。ただし、川魚のアマゴを養殖している家もあり、郷土料理としてその魚を使ったものが供される。
 生家を守るのは久保文良氏である。実は生家を巡っては複雑ないきさつがある。戦後当主の博打のカタに取られて小林家の手を離れたが、当主(チエルさんや治彦氏の兄にあたる)の舅でもある文良氏の父君が買い戻した。当主氏の妻は文良氏の姉である。家は父君から文良氏の弟さんの代になったが、弟さんは事故で亡くなり、文良氏が買い入れた。弟さんの代で家屋が改造され、この時に従来の部分は八畳間二つと縁側だけになった。久保氏は昭和22年以来夫婦ともども三重大学の演習林で作業員として働いており、大学の寮で住み込みをしたり生家の近くに住んでいたが、この時以来久保夫妻が入って住んでいる。
 この当主氏は昭和30年代後半、川向かいにある非浦に一軒の家を別に建てたがいなくなり無住になってしまった。ここに入ったのが当主氏やチエルさんの弟で次男(この代は都合三男四女)の治彦氏である。家が建てられた当初から文書類と祭壇が移されていたという。なお、この当主氏は3年前に亡くなり、ご子息が大阪にいらっしゃるという。
 とりあえず生家を辞して文書を守っておられる小林氏のお宅に行く。小林氏のお宅の前も谷川への斜面を利用した茶畑が広がっている。小林治彦氏にお会いする。居間に通されると、そこには祭壇があった。祭壇全体は質素だが、フジガタが非常に大きい。その上には一枚の額がかかっている。栃木の講によるもののようだが、下にある連名は川上や多気の人たちのものである。縁側には箱を開けた木箱が二つ。それが文書類であった。「来るというから虫干しするいい機会になった。防虫剤いれておかないと」と小林氏。さて、拝見させていただこうというところでお昼になったので、私は場所を借りてあらかじめ買ってきた昼食をとった。田川氏は相地にある今は住んでいないご自宅に風を通してくるということで、夕方にまた迎えにいらっしゃることを約束してご自宅に向かわれた。

食行生家(中央手前の黒い屋根) 小林家の祭壇 文書を納める箱
食行生家(中央手前の黒い屋根)。山深さに注目。ミロクダニという沢の砂防ダムから見る小林家の祭壇文書を納める箱

次講へ続く。