第二十四講 川上に食行生家を訪ねて(二)

前講からの続きである。分量上、半端な場所で区切ってしまったがご容赦願いたい。

▼文書を見る

 簡単な昼食を済ませて改めて文書を拝見する。私は知らなかったのだが、ここの文書と斎藤家の文書については梅沢ふみ子氏(恵泉女学園大学教授)が、食行の遺品類には岡田博氏が簡単な目録を作っていた。いずれも昭和50年代に作られたらしい。鉛筆の手書きで法量なども取られていないものだが、とりあえずの参考にはなる。実は、『富士講の歴史』で「二十や三十ではない」といわれていたくらいなので、大量にあるなら何度か通って目録を作らなければならないのではないかと思っていたが、一応その必要はなくなった。というより、目録の存在自体、当事者以外誰も知らないはずで、その点で存在意義が如何程にあるかといえばいささか疑問であるが。また、その整理の際に行われたのであろうが、文書は各々封筒に詰められている。しかし、A4サイズより大きな封筒を用意できなかったらしく、一部は無理に詰められていた。
 文書は全体として虫害といたみが激しい。特に巻子ものはかなりひどく、虫食いが多々ある上に継ぎが取れかけているものが多い。中には指先程度の面積でしかくっついていない継ぎのものがあり、うっかり扱うと二つになりかねない。『お添書の巻』などはそのために途中でそれ以上開くのをあきらめた。とりあえず目録を撮影し、それから『お決定の巻』を撮影する。この冊子は幸いにも無傷で、かつて平成8年に板橋区立郷土資料館で「旅と信仰―富士・大山・榛名への参詣―」という特別展が開かれた時にも展示されたものである。とりあえずこれをデジカメへ一ページごとに納めていたら時間になった。
 小林氏によると、これらの文書の箱は従来「開けると眼がつぶれる」とされてずっと開けられないままだったそうだ。この家ができた当初から持ち込まれ、無住だったときも押入れに入れられたままだったらしい。それを開けたのは田川正男氏や岡田氏たちの勧めによるものだったという。防虫剤も入れられ虫干しもされている現在、虫害は進まないと思われるが、現状としてこれ以上よくなるとも思えなかったのが率直な心情であった。
 田川氏もいらしたので、みんなで記念撮影をする。田川氏の勧めで『富士講の歴史』にある集合写真と同様の構図で撮ってみたので、比較すると面白いかもしれない。小林家を辞すとクルマで相地に戻り、食行の産湯を採り、三志たちがこの水で写本の墨を摺ったという泉にいった。相地側の斜面の中腹にあり、谷川にかかる橋から延びる脇道から近づく。この湧き水もこの直上にある家が所有を主張しており、今はこの家が管理しているらしいが、お世辞にもきれいな状態とはいえない。この湧き水の受け口からホースが長々と川向かいまで延び、それはあるお宅のアマゴを養殖しているプールへと続いていた。どうやら出荷用ではないらしいが、プールの中ではアマゴが元気よくはねている。食行の産湯はアマゴを養う水となっていた。
 暑い一日は暮れつつあり、私と田川氏は川上を去り結城屋へ向かった。名松線の終点である無人の伊勢奥津駅を物珍しそうに見ている間、田川氏は電話をしておられた。先ほどの斎藤氏と結城屋で一杯やろうということらしい。田川氏によれば、レトロブームで美杉村に観光に来る人たちもいるのだそうだ。確かにクルマから見る上多気の町並みはアンティークそのものだった。宿に入り一風呂浴びた二人に斎藤氏が合流し、三人で郷土料理をつつきながら、食行とはなんぞや、川上の食行遺物を保存する重要性をひとしきり論じながら田川氏と斎藤氏は帰られて長い一日が終わった。

『お決定の巻』表紙 記念写真 食行の産湯を取ったという湧水
『お決定の巻』表紙記念写真。左から久保文良氏、小林治彦氏、久保チエルさん、小林ツネさん、田川敏夫氏、私食行の産湯を取ったという湧水(遠景)。中央の湧水からホースが延びる。

▼二日目

 宿のある上多気と川上はクルマで20分もあれば着く距離だが、歩いていくとなると大変である。まず伊勢奥津駅まで出て、崖に挟まれたくねる道を行かなければならない。およそ一時間半程度と見る。当初の予定では、駅まで宿の送迎バスで運んでいただいて、川上へは一日数本しかないバスをつかまえようとしていたが、久保氏のご好意で結城屋に迎えに来てくださることになった。その前に、斎藤氏が普段は閉めている実行教教会を見せてくださるということで、出勤前の斎藤氏が案内してくださった。
 この教会は昭和3年に建てられたという。銅板葺にしたのは10年ほど前のことだそうである。普段は閉めきりということで窓という窓を開け放つ。当地の実行教では正月三日の「三日まいり」と8月15日の祖先祭を行うという。現在の活動は奮っているとはいえないが、かつては本庁(埼玉県さいたま市)の建材として材木を提供したこともあった。内陣を見せていただき、写真を撮ると向拝に腰掛けてお話を伺う。山菜などはどこの家庭でも自給自足していること、山を越えて住民の手で水を引いてきたこと、上多気より南の丹生俣に木地師たちがいたこと、など。
 また教会を閉めて齋藤氏が役場へ出勤された後、久保氏がいらした。久保氏は陽気でおしゃべりが好きな人と見えて車中でもなかなか退屈しない。食行生家と別に不二道の文書を所蔵する斎藤本家を遠くから望む。見る先に10個ほど屋根がまとまって並んでいる一角があるが、一つ二つの隣家を除くと全てこの家の所有である。斎藤氏によれば味噌倉、米倉、道具倉・・・と七つほど蔵があるそうで、その威容は遠目からでも瞭然である。たまたまご当主がいらっしゃらないということで今回は訪問を見送ったのが残念である。
 途中で北畠神社による。40代くらいの神主が守っていて、祭主が不在になってしまった実行教教会もこの人が神事を兼務している。とはいえ、普通の神事とは違うので、本庁に行って訓練を受けてきたのだという。もう一つこの神社の目玉は細川高国が作ったという庭園である。庭園を見ようということで、入園料を久保氏が出してくれて申し訳ない気分になる。庭園は美しいがその様式などは私にはよくわからない。
 北畠神社を辞して川上に向かう。が、今日も直接小林氏宅に行かず、前行正古(1803?-1825)の墓に参る。この人は小林友治郎といい小林家の人だが、小谷三志の門下となったものの師の振る舞いが食行の教えに背くとして断食して死ぬことで抗議した。この人については『富士講の歴史』や田川正男氏の『食行身禄Ёの生涯』に詳しい。その人の墓石が生家裏山のミロクダイラというところにあるということで、小林氏にはしばしお待ちいただいて久保氏と行くことになった。どうも登山になるらしく、スーツ姿では登れないだろうということで寝巻きに使おうと持ってきた(ただし、行く先々で浴衣が用意されていたのでその用途としてはついに使われなかった)ジャージに着替えて、しかし下は黒い革靴のままで登ることになった。この山自体は既に小林家の所有ではなく、所有者は奈良県の人ということである。山道として一応の道がついていて、ミロクダニと呼んでいる沢の砂防ダムを巻きつつ登る。もはや杉の木に囲まれた山の中である。
 田川氏によれば、この周辺の民俗としてダイニチ信仰があるという。山頂に「ダイニチさん」の祠があり、7月1日には「ダイニチゴモリ」という行事を行う。後で小林氏から伺ったところでは、「ダイニチさん」とは牛の神様で、集落ごとに祀る社であるという。それは山の頂上だったり河原だったり集落によって異なる。非浦も非浦で同じように別の山の上にある「ダイニチさん」の祠に参詣するらしい。農事が一段落する「ノウアガリ」の時節に酒肴を持って籠もるという。小林氏によると、かつては夜に籠もっていたそうだが、最近は昼に行うそうだ。話を聞く限りではその実態はいわゆる「オヒマチ」のように聞こえる。ともかく、途中、別の登り口からその「ダイニチさん」へ通じる細い道に出て、更に登る。10分から15分と聞いていた割には随分長く登る。おそらく片道30分くらいだったと思う。大学の演習林で作業員を長年務めてきた久保氏は元気に登るが普段運動不足の私にはややきつい。その墓のそばにモミノキがあるということで、それを探しながら登る久保氏が迷い気味になったところで、その墓は見つかった。白っぽい石が一つ横たわっているものの、正直言われなければそうだとわからない。少なくとも私一人でいっても全く気付かないだろう。それくらい何気なく石が置かれているだけなのである。とはいえ、周囲をよく見ると墓石からごく簡単な参道らしく石が敷いてあるように見える。また道の脇に一段高い石組みがある。久保氏とここに何かあったんだろうかという話になるが、後で小林氏がおっしゃるところによれば社があったといわれているらしい。
 一通りお身抜をとなえて参詣すると再び来た道を戻った。久保氏と話しながらの登山なのであまり疲れは感じないが、時間は気になる。久保家に戻ってきた時にはやはり昼飯時となっていたので、小林氏にはやはり待っていただくことにして昼食を久保家でいただくことになった。キッチンは当然旧来の居間でなく別にある。残っている居間と縁側を除くとそこは普通の家屋である。昼食は結城屋でつくっていただいたお弁当である。朝食の代わりとしてお願いしたものである。

上多気の実行教教会。 前行正古の墓域 食行生家の旧態をとどめる八畳間と縁側
上多気の実行教教会前行正古の墓域。中央の白い石が墓石といわれるもの。手前に参道の敷石だったらしき石材が見える。食行生家の旧態をとどめる八畳間と縁側

▼再び小林家にて

 小林氏は待ちくたびれていたようで申し訳なかった。さっそく巻子に絞っていくつか見せていただくが、どうにも開きにくい。壊れかけているところを恐る恐る開いている状態である。また、食行の著作を除くとここに奉納されている文書類は不二道か、あるいは参行禄王の著作が主体である。主力は小谷三志が奉納したものと弟子の鈴木頂行が奉納したものであるが、どうやら各々に番号が振ってあるところで混同されてしまっているらしい。梅沢氏の目録を見ながら確認していくが、どうも中身が番号と合わないと思ったら三志の奉納物のなかに頂行の奉納物が紛れているのである。しかも封筒に表装されていない巻子が束になって突っ込んであるだけなので、どれがどれだかよくわからなくなってくる。更に、番号の記されていない巻子の冒頭にボールペンで番号が書かれているものがあった。このようなことは絶対してはならない非常識な行為なわけだが、過去に訪れた岩科門下の誰かがやったに違いない。
 そんなこんなで、結局これ以上のんびりと閲覧していることはできなかった。久保氏と小林氏と私とで「これを如何にして後に伝えていくか、保存していくか?」という討論の場となった。久保氏曰く、「ここまでつっこんで話してくれた人はいなかった」ということで、「(ここを訪れる人は)本とかはよく送ってくれるけれど、ぱらぱらと見るだけで読むわけでもなく、これらが何であるかどう保存するかを話してくれた人はいなかった」ということであった。私自身は大したことを言っていないつもりなのであるが、ここを訪れた人たちがあまりにも現物に眩惑されていたということであろうか。
 私がこれを残すのなら、どこかの機関に寄贈乃至寄託することを考える。最早個人での保持は限界だと思う。三志がここをたずねた時も小林家の親類筋のものが盗み出して売り払おうとしたことがあり、さらに『一字』と手紙は近代になってから吉田の御師・田辺十郎右衛門こと田辺英一が借りたまま富士山本宮へ持ち込んでしまった。これからも盗難や持ち出して返ってこないなどの危険性は尽きない。私はこれら食行や三志たちが残したものが誰かの金づるにされてしまうことを大変おそれる。そういうことは食行の手紙にある「暇があれば書き写して読んでひろめよ」という彼の意図にも反する。可能性のある機関としては、美杉村、三重県、国、近いところで天理大学(吉田文庫などもあって図書館の評価は高い)、久保氏のご縁もある三重大学・・・。しかし、三重県は訪問のお膳立てまでしたのに来なかった、美杉村は津市と合併することもあるし、村の資料館(今回は行かなかったが北畠神社の隣にある)ではやや不安だ。しかし、小林氏曰く、美杉村、せめて三重県からは出したくない。正当な所蔵者はこの家も建てた治彦氏やチエルさんたちの長男のご子息ということになり、しかし彼はこうしたものに興味がない。更に他にも話を通すべき親類がいる。しかし、小林氏ご自身ももうご高齢であまり時間もない。小林氏は実行教の信徒である。その縁で小林氏は上多気の、朝に見てきた教会に寄贈することを考えていたらしい。しかし、斎藤氏と話すところによると湿気がこもりやすく、シロアリが出るという話で、既に虫害を蒙っているこれらの文書にいい環境だとは思えない。
 ここで議論していても結論が出るわけではないが、小林氏は78歳ということで80歳を目処にしてなんとかしてみたら如何かということで落ち着いた。
 そうこうしているうちに電車の時間が近づいてきた。今晩は結城屋ではなく、これから松阪で宿を探さなければならないので遅れることは許されない。久保氏が伊勢奥津駅まで送ってくださることになった。時間に急かされながらできるだけ丁寧に小林家を辞すと、駅には既に一両編成の電車が入っていた。名残りを惜しんでくださる久保氏は電車の出る最後まで見送ってくださった。私は今回お世話になった気のいい美杉の人たちを思うと、山あいの道を走る車窓を眺めつつとてもせつない気分になった。松阪までは1時間15分くらいだそうだ。

▼まとめと謝辞

 『お決定の巻』自体はともかく、食行の生家とその文書類を見ることができたのは貴重な体験だった。当地では想像以上に食行について関心が持たれていなかったという事実には閉口せざるを得ないが、しかし気にかけて大切に思ってくれている人もいるにはいるということに少しだけ安堵した。ただし問題も山積されていて、正直言って将来的にこれらがどうなるかということには大変な不安を覚える。私は冗談で「一億あったらこれ全部買い取ってます」と言っていたが、実は半分冗談ではなく、しかるべき資力があったら自力でどうにかすることを考えているところだ。
 今回は多くの人のご好意に預かった。紹介の労をとってくださったばかりではなく美杉村をくまなく案内してくださった田川敏夫氏、美杉村教委教育長としてばかりではなく実行教の役員としてもお世話になった斎藤昭久氏、食行生家を守る久保氏ご夫妻、文書と祭壇を守る小林氏ご夫妻、結城屋旅館と結城村長の皆さんには大変お世話になった。記して深く深く謝意をここに示したい。