松戸駅周辺の大きな富士塚、前編
▼経緯
2004年3月6日、私は地元葛飾区の教育委員会が主催する文化財めぐりという行事に参加した。2月下旬にたまたま区の広報を見ていたら、「富士講を見学します」という触れ込みで参加者募集が告知されていたのであわてて申し込んだのである。葛飾区には飯塚富士と呼ばれる冨士神社がある。『A』によると、この塚は明治12年(1879)に塚の上に社殿が建っていたところを降ろして、残った基礎に土を盛ったものだという。この社殿はコンパクトなものであるが、見るべきは内部にある大型の絵馬であり、『A』は明治十九年の銘があったというが、現状では剥落が進み「明治」より下はよくわからない。
この手の催しに参加するといつも私が最年少で、大抵老人たちに囲まれた単独行となるのだが、この時は様子が違っていた。その催しに先立って某区で行われた富士講の特別展で展示責任者だったコートー三郎さん(仮名)がいらっしゃっていた。驚く私に「大谷さん来ると思ってましたよ」・・・。読まれてるなと心中苦笑い。
今日のコースは三菱製紙中川工場跡地―花之木稲荷神社―冨士神社という数時間の行程だった。二人の目当てはあくまでも冨士神社なので、冨士神社までの間は富士信仰研究史を話しながら歩く。冨士神社では飯塚富士講の人たちが出迎えてくださった。後で彼らの説明を聞くと、戦後まで細々とあるいは中断しながら(?)ではあるが続けていた講らしい。現在は10人ほどで、若くて40代の人もいた。本尊として掛けていた軸を見る限りでは扶桑教の傘下にいた講のようで、塚のことも考えると設立は明治初期だろうか。とりあえず、彼らによるお祓いを受けて塚に登り、神社敷地にある集会所で禊祓とお歌数首を唱える模擬を見せていただいた。
見学も終わり、現地で解散すると私とコートーさんは金町で昼食をとった。コートーさんは小野照の富士塚に行ってみたいので案内してほしいということだったが、小野照崎神社の富士塚は山開きの時にしか開けないので門を眺めてくるより他にない。それも面白くないのでどうしようかと考えた時、常磐線で隣駅の松戸にある富士塚を思い出した。その時は「清水の富士塚」と呼んでいたが、それは確か駅の近くだったような気がする。「気がする」というのは、そこへ直接行った事はなく、松戸市立博物館の「富士講の人々」という記録映画(レヴューは講堂第二十一講参照)で「清水講」という名前で活動する富士講を見たのみである。かくして松戸駅に降り立った二人は、大谷の携帯する小さい地図にある「浅間神社」を目当てに強い春風の吹きつける松戸駅周辺を小一時間さまようことになった。その目印は松戸駅からやや遠いところにあり、金町方面に向かう国道6号線の傍らにある。そしてようやく到着したのは・・・、目的の神社ではなかったものの山一つを利用した巨大な浅間神社だった。
▼松戸市小山の浅間神社
私とコートーさん二人が迷った末にたどり着いたのは、松戸市小山にある浅間神社であった。この神社は緑に包まれた山そのものであり、遠目にもよく見える。下に示した遠景は松戸駅から金町へ向かう常磐線と引込み線の分岐にある跨線橋の上から撮影したものである。お断りしておくが、以下の写真は必ずしもコートーさんと歩いた時のものではなく、後日に撮影したものが含まれている。
私たちはその大きさに驚き、下の鳥居や「下浅間」とある社などを撮影しまくった。そのうちコートーさんが「由緒書をもらおう」と言い出して閉まっている社務所の呼び鈴を押す。出てきたのは三十がらみの女性で、そういったものはないが今も富士講があって山開きの行事をしていると教えてくれた。手水舎には山万丸こ講の色あせたマネギが翻っていて、彼らが山万講の系統にあることがわかる。ただ呼び出しておくというのもなんだかなあ、ということで神札をいただく。ごく普通の「浅間神社神璽」であった。ご婦人に挨拶し、辞して山に登る。鳥居の脇に看板が立っており、それによればこの20メートルの山は太日川の開析作用によってできたもので、山全体が極相林となっているが故に千葉県の天然記念物となっているということであった。天然記念物の浅間神社などはじめて見る。
麓の鳥居から山頂の神殿まで一直線に石段が伸びている。コートーさんは石段の一々に朱で人名が記されていることに気づいた。おそらく寄進者だろう。そして、その石段の脇に合目石が配され富士山を象ろうとしている。途中、中腹右手に鉄柵の扉がある。鍵はかかっていないので入ってみると、数十メートル先に小御嶽大神の石碑がある。柵入り口のそばに何かものをほおばった猿の石像が台の上に置かれていた。「これはきっと言わ猿で、他にも聞か猿とか見猿があるんじゃないでしょうかね?」と周囲を見回すもそういったものはない。後で気づいたのだが、この猿の右手は小御嶽を指差しているようにも見える。また、少し進むと左側に小御嶽ほどではないものの鉄柵の扉がある一画があり、宝永山の石碑がある。これらの石碑は見たところ近代のものである。山頂付近、また右手の一画に稲荷社を祀る。それを過ぎると山頂の神域である。
林に囲まれたままの山頂は全く展望が得られない。木々の隙間からかろうじて常磐線や葛飾橋が望める程度である。山頂の中央には神殿が鎮座していた。石垣で一段高くなっており、正面から行く他に石垣を左に廻ると三峰神社の石碑のある石段がある。石垣に乗る玉垣には山万丸こ講の紋と磨耗して不明な紋とそれらに属する寄進者の銘が一つ一つに刻まれていた。社殿を回りこむと本殿基礎の石垣に「(山万の講紋)/富士登山講/教會月並講/一同/大正十四年十一月十日」とある石板が埋め込まれている。しかし、この神社自体はそれらのものよりはるかに古いらしく、石垣手前には元文三年(1738)の銘をもつ富士浅間社に寄進した石燈籠があり、石垣正面の両脇には「文政九丙戌年五月」「當村富士講中」と刻した石板が嵌められている。ただし、明治四十四年の石板もあり、この石垣は何度か改修されているらしい。なお、社殿右手には香取参拝記念の石碑があり、そこに某区の地名やそこによくあるという姓を見出したコートーさんは興奮気味に激写されていた。ここに現れる地名はすべて水運や漁撈によってつながっていると考えてよい。当地や周辺の富士講も同様なのだろう。
社殿から右手に下れるようになっていて、少し広い一画に数メートルの窪みがあり、周囲に石祠が二基、石碑が一基立っている。火口かなとコートーさんはいぶかしむ。そう見えなくもないが判断はつかない。ただし、その石碑は窪みを背に「御八領/金明水/船橋漁師町/魚仲間/明治三十五年六月」とあり、御八領とは「ご八葉」即ち火口を表す語の転訛と考えられるので、やはり火口なのかもしれない。しかし、社殿左手に劔が峰の石碑もあって、山頂全体が富士山頂を模しているであろうことを考えると疑義が残らないでもない。石祠のうち、一つは新しい、おそらく現代の水神宮だったが、もう一つがよくわからなかった。不釣合いなほどに身舎が長く屋根が大きく、要するに立派なものである。大きい屋根部は細くない鉄パイプで支えられている。その破風にはこれまた立派なヤスデの葉が彫ってある。ヤスデの葉ならそれは天狗の持ち物なので、小御嶽を祀ったものかとも思うが、それならそうで(石碑にとって替わられたとはいえ)中腹にあるべきでもので山頂にあって良いものではない。その点でも不審であるが、今はこれ以上考える材料がない。
二人は、当初目指していた富士塚ではなかったものの、立派な浅間神社を見たことに満足して山を降りた。帰りは常磐線の路線を左手に見てその路線に沿って歩く。この近くには戸定が丘歴史公園という、水戸徳川家の別邸を残した公園があり、松戸駅からそこまで行ければ更に右手にまわって線路沿いに行き、ぶつかる跨線橋の向こうにこの浅間神社が見える。駅と神社の間はおよそ徒歩20分の距離である。
飯塚富士を含めて紹介したら長くなってしまった。後編につづく。