東京都足立区にある丸藤講のお伝え(一)

▼「お伝え」とは

 前講から久しぶりの追加となる。ページ全体を公開したのに更新が遅れているのは、二ヶ月ぶりに働き始めてなかなか書く暇を作れないのが主な原因である、と言い訳しておこう。
 すでに公開前の時点で@niftyから無料分として与えられた容量(10M)の1/4を使い切ってしまった。容量に気を配りつつコンテンツを書かなければならないのはいささかつらい。が、困ったことに今回も画像満載の予定である。

 さて、今回紹介するのは、タイトル通り「お伝え」である。
 お伝えとは何か。この語は角行系宗教のうち食行の著作と富士講の日常の中で聞くことができる。ただし、この両者では意味するものが全く違うということは覚えておく必要がある。食行の用例では以下のものがあげられる。

にんげんわこころさいろくにもち 御伝えのとおりねに伏し寅におきて はたらきわよるひる めんめんのそなわりたるかしやくお一筋にして まんぼうのしう生もろともに御たすけ被下候と御礼申上ケ よるひるはたらき申候得ば 天と我らとわ一体のこころなり 天と一体のにんげんお男女共に 京のししい点の内え御よび被成候との御伝えに御座候
(岩科小一郎『富士講の歴史:江戸庶民の山岳信仰』―名著出版、1983―、p.502a)

 ここでいう「御伝え」とは、「神のお告げ、神の命令」という意味である。この「御伝え」こそ、食行にとっては最も遵守すべき行動の規範にして最も優先すべき絶対者による他律的な命令である。
 しかし、富士講ではどうか。富士講で「お伝え」と言ったときは「(特に折本状の)勤行用テキスト」を意味しており、更に『三十一日の御伝』などと書名の一部として用いられることもある。この違いはよく認識しておく必要がある。食行と富士講はあらゆる意味で混同してはならない。食行と富士講の間には大きな断絶がある。お互いにおけるこの語の定義一つを見ても、両者を調停することの難しさがある。この講では「お伝え」と言ったとき、後者、特に勤行用テキストを指すものとする。
 法会や拝みと呼ばれる富士講の勤行で用いられる唱え文句には、角行系宗教に起源を持つもの、神道や仏教など他の宗教から転用されたものが混在し、これらがある一定の配列で並べられている。多少の差異はあるかもしれないが、大まかな配列はどの講のお伝えでも大差ないと思われる。
 富士講の人たちはこの文句を口承によって受け継がれていくものだと考えているが、しかし実際はこれらが記されたテキストを持ちながら実際の勤行をこなす。ただし、これらのテキストにはこのWebpageで角行系文字と呼ばれている一群の特殊な文字(解説)が使われていることもあり、前もって読み方に対する知識が必要となる。特に「御文句」と呼ばれる角行系宗教起源の呪文は、そのままでは何と読むかわからない。例えばある講のお伝えにある「躰かたまる様」という御文句は以下のようである。

東天竺はやちかたまる人風南天竺身かたまる火風西天竺相手とむる悪風北天竺地をきたへてかへす黒風知天竺光Ё心の道なり生風連万國鬼門國光久丹政清浄天北州才Ё六天心は三光天地は六開天拾天八天一天と一筋に御助け願上頼み奉る
(丸藤宮元講社の昭和31年の奥付をもつ『不ニ山御傳』)

 この字面だけを見て、節をつけて詠むことは難しい。よってお伝えの訓みを知るためには実際に勤行に参加して詠み方を覚える必要がある。また、この文面を構成する漢字は当て字が多く、お伝えごとにその当てられている字が異なる。場合によっては訓み自体が他のお伝えと異なることも一再ではなく、その差異がローカリティと化している。

▼綾瀬から五反野へ

 ここで紹介するお伝えの解説をするには、まず「閲覧」で綾瀬稲荷神社の富士塚を取り上げた時のことを書かねばならない。この神社の社務所を訪ねたとき、応対に出られたのがこの神社で禰宜を勤められる唐松秀典氏だった。唐松氏は親切な方で、こちらの素性を明かすと丁寧に応じてくださった。話の中で食行の研究をしていると言うと、「食行の木像を祀る家がある」とおっしゃり、あるお宅を紹介してくださった。それが今回のお伝えの所蔵者である柳川峰造氏であった。
 唐松氏によると、柳川氏は唐松氏の兄上が宮司を勤めている足立区足立にある西之宮稲荷神社の富士講の先達であるという。最近移築されたが、ここにも富士塚があり、千住の丸藤講から分かれた講がある。私も高校生のとき、自転車の通学路としてよくこの神社の前を通ったものである。教えられた電話番号で柳川氏にコンタクトをとると、唐松氏といっしょに来てほしいということで(初対面だから当然であろう)、唐松氏と二人で伺うことになった。
 柳川氏は「人なつこそうなおじいちゃん」という印象の方で、ご自宅の客間に通していただくと、三宝を載せた案が三重ほどに連なる向こうに、壁に造りつけられた神殿があった。神殿のおもてにはガラス戸がはめ込まれていて中を窺うことはできない。神殿の周囲には古峰講のマネキや成田山のお札が並べられており、案に置かれたたくさんの三宝の上にも供物やお札といったさまざまなものが載っている。柳川氏いわく、身禄像はその神殿の中にあり、とても出せる状態ではないということだった。唐松氏によれば以前は簡単に出してくれたようなのだが、柳川氏自身がご高齢(大正九年生)ということもあって案を動かすのは難しいらしい。しかたないので、身禄像はあきらめてお話を伺うことにした。
 元々、この神殿は峰造氏の叔父にあたる柳川重之助氏の自宅にあった。重之助氏は千住の丸藤講の先達だった人である。この講を元講として五反野や柳原に丸藤の枝講ができていた。重之助氏が没して後、神殿は峰造氏がお祭りしていたが(峰造氏は神職の資格を持っている)、重之助氏の息子が転居し、家を取り壊すということで昭和四十六年に千住から五反野へ遷座することにした。この息子さんは先達を継ぐことはなかったが、講自体はまだある。
 峰造氏の父上の藤三郎氏は重之助氏の弟で、五反野の丸藤講の先達をしていた。しかし、昭和二十年の空襲で西之宮稲荷に預けてあった祭具一式が焼けてしまったという。藤三郎氏の後は峰造氏が先達となったが、現在はもう富士講としての活動はなく、峰造氏個人で五合目の小御岳神社に参拝に行く程度らしい。この講の詳細については足立区立郷土博物館地域講座石造物を調べる会編『富士塚の石造物』(足立区石造物調査報告書第1集、1999)のp.4fに詳しいのでそちらを参照されたい。
 さて、私が例のお伝えを数ある三宝のうちから見つけたのは、柳川家を辞去する間際、その上に載るお札の類を見ていたときのことだったと思う。そのときからこのお伝えをここで公開できないものかと思い、後日日を改めて再度柳川家を訪れて、趣旨を説明し、借用書を書いてお伝えを借りだすことができた。インターネットとホームページというものを説明するのに一苦労であったが、柳川氏の快諾を得ることもできた。撮影にはかなり苦労したが、次回で現物について説明していきたいと思う。

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