綾瀬稲荷神社の山開き

▼富士山の山開き(概説)

 いうまでもないが、夏は富士登山のシーズンである。
 富士山の各登山口では七月一日に山開きが行われ、八月末の山じまいまでシーズンはつづく。富士山は期間中(実際に登れるのは九月始めまで)登山客で賑わう。もちろん、近代的な登山の発達した現在、冬山登山の対象として雪のある時期に富士山に登る人もいるが、富士講ではそういうことはしなかった。吉田(山梨県富士吉田市)の御師たちも登山期が終ると、壇まわりと称して顧客となっている各地の富士講を巡回し営業活動に励んでいた。つまり、冬に登山しようと吉田に行っても宿の主人たちはいないのである。
 富士山の山開きは富士山だけで行われるものではない。各地にある浅間神社でも山開きが行われる。前日の六月晦日は夏越しの祓なので、そのときの芽の輪が一緒に出ているところも多い。現在の山開きは新暦に合わせて七月一日に行われているが、旧暦では六月朔日に山開きが行われたので今でも六月一日に山開きの行事を行う浅間神社もあるにはある。有形民俗重要文化財に指定されている富士塚を有する東京都練馬区江古田の浅間神社では六月一日に山開きを行う。
 蛇足ながら、江戸の山開きで有名なのは、東京都文京区の駒込神社が出す藁蛇という縁起物である。要は藁で作った蛇の形をした玩具で、山開きの日にのみ授与するというものである。藁蛇の濫觴は駒込神社とされているが、有名な風物詩となるだけあって他所の浅間神社でも売り出された。かつては浅草の浅間神社でも出していたということを、民俗学の研究者でもある浅草寺の塩入亮乗先生から伺ったことがある。また、[北区教育委員会編]『十条冨士講調査報告書』(文化財研究紀要別冊第五集、北区教育委員会社会教育課、1992)p.25にある十条富士大祭のレポートによれば、東京都北区十条の富士神社では現在でも授与されていることが知られる。藁蛇の話は浅間神社編[井野辺茂雄著]『富士の信仰』(富士の研究3、古今書院、1928。ただし名著出版、1983の復刻による)p.354f.に詳しい。

 浅間神社が山開きなら、富士講にも山開きがある。地元に富士塚を持つ富士講は山開きの直前になると塚を掃除して整備し、塚に参詣者が登れるようにするのである。子供が富士塚を遊び場にして怪我でもされてはかなわないということで、普段は柵などを廻らせて登ることを禁じ、山開きや年始の時にのみ開放するという富士塚も少なくない。雑草も伸びる時期、山開きはいい掃除の機会である。もちろん、祭具や拝みの習慣が残っていれば山開きの際に広げられたり唱えられたりすることもある。
 富士塚を持たない講は、附近の富士塚に集団で詣でる。白装束があればそれを着ている事も多い。特に七富士参りといって、各地にある七つの富士塚を一日で巡るという習慣を持つ富士講がある。交通機関が発達した現在では七富士の組み合わせを年毎に変えたり、やや遠方の富士塚に詣でることもある。詣でられる富士塚を有する神社や講には前もって連絡が行っているから、彼らはやってくる講の人たちをお祓いし接待する。訪れる講はお祓いを受けて、塚や神前で拝みを唱え、以て参拝するのである。この様子については映像資料も残っているが、紹介するのはこの回の任ではないので稿を改めることとしよう。

▼山包講と丸渕講

 さて、今回ここで取り上げる綾瀬稲荷神社の山開きに、上で述べたようなにぎやかさは皆無である。富士塚はあるが、もはや富士講も残っておらず、藁蛇のような縁起物が出ることもない。いたってごく普通の神事として山開きが行われている。確かに富士講の行事として山開きを取り上げるのなら、白装束に身を固め腰に下げた五鈷鈴の音もにぎやかに拝みを唱和する富士講の振る舞いを追えば風情が感じられて話題にもしやすいのだが、富士講が大きく衰退した現在、縮退した講の実態を捉えるのもそれはそれで意味あることだと考える。富士講が講としての独自性を失い氏子の組織そのものとなってしまったところは多い。そういう講は拝みを行うこともなく、富士登山もしないが、しかし名残りとして多少の神事を行うこともある。そして、綾瀬稲荷神社に拠っていた山包丸渕講もそうした講の一つである。
 今回もこうしてこの神社を取り上げるのは偏に宮司の唐松秀典氏のご好意で、この神社とは富士塚閲覧室でここの富士塚を取り上げた時以来のお付き合いである。この神社には落語家の三遊亭円丈氏による神社公認のWebpageがあって(三遊亭円丈氏のpageにはリンクに対する規定がどこにも見当たらないので勝手にリンクさせていただきます)、概略はそこからでも知ることができる。

 この神社の富士講については足立区郷土博物館 地域講座 石造物を調べる会編『富士塚の石造物』(足立区石造物調査報告書第一集、足立区郷土博物館、1999)p.6や、社務所で制作した氏乃大室乃徳三伊[大室徳三]監修『綾瀬富士由緒及石碑銘文』(綾瀬稲荷神社、1993)に詳しいが、かいつまんで説明すると以下のようになると思う。
 この講は山包講の枝講として、拝み箪笥の底面にある「文政九戌年十月吉日」とある墨書銘から少なくとも文政九年(1826)には成立したとされる。また共に祭られる富士型には文政十年の銘があるという。私は残念ながらこの拝み箪笥の細部を見せていただくはいたらなかったので、あくまで文献の記述から述べざるを得ない。この講は渕江領にあったところから丸渕講とよばれた。以降昭和に入るまでの足跡は現時点では詳らかではない。富士塚にある石碑のうち最古のものが明治四十二年(1909)のもので、神社の伝によれば鳥居入って右手に小塚と祠が昭和二年(1927)に富士塚を現在地に築造するまで存在したということからして昭和二年まではこの石碑も祠の傍らにあったと思われる。
 戦後は衰退の一途をたどり、昭和二十一年(1946)に富士塚が神社の末社として管理されることになったのを始め、同三十二年(1957)には講名を「山包五兵衛町講」と改称して神社氏子と同化し、講の世話人を氏子の中から選出した。形態を変えても拝みや登山を活発に行った様子はないようで、同四十一年(1966)に講の「活動一切を神社に任せることになった」(『綾瀬富士由緒及石碑銘文』22p.)という。つまりは既に活動を行っていなかった講を神社に預ける形で解散したのだろう。
 神事の後の直会(なおらい)で氏子の方々から聞いたことをまとめると、氏子の人たちは昭和三十年代後半までは拝みをしていたという。ここに集まっているのは総代長の大室徳三さん(大正八年生)を筆頭に、大正から戦前にかけて生まれた人たちばかりで、くじ引きで拝みの家を選んでいたとか、どこそこのばあさんが熱心だったなあとか、白いのを着て拝みをやっていたのを見たことがある等、切れ切れに思い出してはくれるのだが、もはや数十年前のこととあって記憶は皆一様に薄い。また、富士講は無尽をやっていたという話もあった。要はお金を積み立てておき、くじ引きで当たった人が頂戴するというものである。富士講でそういうことを行われていたということを聞いたことはないので本当かどうかは知らないが、ひょっとしたらそういうものもあったかもしれない。富士登山にいたっては、戦後に一回くらいの記憶しかないようだった。それも昭和二十年代後半のことだったらしい。
 この講の特徴は「講があった当時から先達がいなかったらしい」という点にあると思う。尤も富士塚の石碑には「先達」として名前がいくつか登場するが、どうやらこの「先達」は講の代表者である「講元」とほぼ同義であるらしく、事実、この講の関係者には行名や血脈は聞かれない。石碑に現れる「先達」は皆実名で現れる。この点は前三回に渡って取り上げたお伝えの所有者である、五反野の丸藤講の先達・柳川峰造氏に似ているといえなくもない。この山包講が所有する拝み箪笥の引き出しには「[山包の講紋]講中 江戸ばし 先達新八」とあるという。おそらく、江戸橋の講から何らかの人脈によって綾瀬・五兵衛新田周辺に分派したものが、明治に入る前に(あるいは分派して早々に)血脈だけ途絶えてしまったのではないかと推測する。先達が先達となるに際しては、例えば僧侶における得度・受戒といったような特別のカリキュラムや、または免許や印可の類を必要とされない。とりあえず吉田の御師とつきあいがあり拝みや法会ができればそれでよい。
 最近、『富士信仰研究』第二号で青柳至彦・時田克男の両氏による「市原の山包講」が発表された。それによると、山包講はもともと田辺十郎衛門の子の仙行真月(次男の中雁丸豊宗と理解していいのか?)が江戸麻布の包市郎兵衛と三浦文次郎を弟子としたのが始まりという。山包講は早くから麻布から消えて江戸橋に移り、更に市原(千葉県市原市)へ山包元講として本拠が移転し、ここから山包正講が枝分かれして以降千葉全土から茨城へと教勢を広げたらしい。元講の四代目先達が五井在住の祝行こと時田庄兵衛に移ったのは文化八年ということなので(p.122)、丸渕講の成立当時には、すでに山包講の拠点が市原に移っていたということになる。  ただし、現在の人たちによる山包講に対する意識はかなり異なっているらしく、唐松氏いわく「富士吉田の北口本宮浅間神社に知らない間に山包講の元講にされてしまった」という。以前は浅草にあったのだが、その浅草の講が消滅したために都内にあるこの講が元講ということになっているのだそうだ。ただ、前述の論文では市原の冨士講も形骸化してしまっているという(p.121)し、また枝講の山包正講の方が大きくなってしまったということなので、この辺りの意識のずれはやむを得ないのかもしれない。
 市原の山包講と丸渕講の関係については、今後お互いの研究が進むにつれて判明することも多いのではないかと個人的には期待している。市原とこの綾瀬稲荷神社との間に現在交流はない。が、青柳氏いわく、市原でも丸渕講の名やこの神社にある富士塚の石碑に現れる人名を当地の石造物の銘の中に頻繁に見るそうだ。ということは、山包講の名のもとに両者間で交流があったに相違なく、今後の課題として残しておく価値は十分あると考える。

▼山開きの実際

 これから山開きの実際について述べたいと思う。とはいえ、前項のはじめに述べたように富士講独自のものとして見るべきところは何もなく、ごく普通の修祓である。他所から白衣の行者の一団が参拝しに訪れるということもない。傍目には氏子が神事を行っているようにしか見えない。
 七月一日を遡る前日、私は予め唐松氏を訪ねることにした。神社に着いたときは唐松氏は準備を終えようとしているところだったらしい。わざわざ拝殿から出てきて話を聞かせてくださった。現在では神前に拝み箪笥を置いてセッティングしているが、かつては社殿の向かいにある神楽殿の舞台上に出していたらしいと説明してくださった。「山開きは午後二時から始めるから一時半ぐらいにくるとちょうどいいんじゃないですか?」ということだったので、それに合わせて伺うことにした。私には山開きを見ることと別にもう一つ目的があった。拝み箪笥もさることながら、それと一緒に所蔵されている文書類である。これらは拝み箪笥と共に足立区指定の文化財になっているが、どのようなものかよくわからない。唐松氏は私の意図を汲み取ってくださっていたようで、ホームページで取り上げることも含めて、それを見るに氏子総代の人たちに許可を取ってほしいということだった。
 当日、言われた時間より少しだけ早く到着するとぱらぱらと氏子総代の人たちも集まりかけていたところだった。拝殿に上がらせていただくと、拝殿と本殿の間に満艦飾の拝み箪笥が鎮座ましましていた。唐松氏は前もって拝み箪笥に蔵されている古文書を取り出してまとめておいて下さっていて、総代長の大室氏が来たら話をすればいいということだった。手にとってざっと見るとお伝え類と講員の名簿や出納に関するものが主のようである。残念ながら神事の主役とあって長く拝み箪笥の前に立つことは許されなかったが(山開きの他に、たまに特別展の類で借り出されることがある以外は仕舞われている)、確かに足立区指定文化財になっているほどのものではある。現存する拝み箪笥そのものがあまりないということもある。
 二時になると神事が始められた。椅子に腰掛けている参列者は私を除いて八人。いずれも氏子総代である。唐松氏が太鼓をたたき開式を宣言する。祓詞を唱え、大麻(おおぬさ)と火打石で神殿と参列者を清めた。修祓に次いで祝詞を奏上する。奏上し終わると、唐松氏は雅楽のテープを流し、玉串奉奠に入る。玉串を渡された参列者は拝み箪笥の前の案に玉串を奉る。最後に、私も玉串奉奠をするよう唐松氏が目配せをする。恐る恐る玉串を奉って拍手を打ってきたが、実は玉串奉奠をしたのはこれが始めてである。
 以上で神事は終わりである。また太鼓を打ち閉式を宣言する。この間約十五分程度だったと思う。ただし、それは神前でのことで、椅子を全部片付けると富士塚の前に行って案を広げ、総代長の大室氏以下また玉串を奉奠する。富士塚は鉄柵の入り口が開けられ、その脇に青竹を指物として立てられている。また柵にはマネキが五枚かけられている。このマネキは中に五反野のもののあるが、神社所蔵のものである。私もまた奉奠をした。この後、唐松氏に「塚に登っていいですか?」と訊ねると、「(私の)お祓い終わっているからいいでしょ」ということだった。
 神事のあとは直会である。直会は氏子総代の会合でもあるから一杯やる前に会計報告が行われる。その後、唐松氏は「この後用事があるからこれで・・・」と席をはずしてどこかへ行ってしまわれた。その間、私は拝み箪笥に入っていた区指定文化財の古文書の借用書を書く。実は、唐松氏のご好意で、唐松氏が総代長の大室氏に文書借用の口利きをしてくださったのだ。拝み箪笥と古文書は神社のものなので唐松氏の一存では動かせないということである。この文書は今も私の手元にあるが、この調査結果はいずれここで公表できると思う。
 会計報告が終わるとお酒とビールで乾杯し、直会は歓談の場と化す。学生でもないのに研究するチョンガー(独身)の私は、彼らのいい肴だったようである。数時間で直会はお開きとなり私も古文書を手に辞去した。山開きのレポートは以上である。

 前にも書いたが、この山開きは富士講のものではない。完全に様式としては神道のそれで、講員となるべき人たちも全て神社の氏子である。ただ、私はそれを悲しいとか嘆かわしいと思う気持ちはない。富士講はいずれにせよ滅びる宿命にあると私は考えているからだ。このことはついてはいずれ講を改めたいと思う。

▼謝辞

 最後になりましたが、この場を借りて唐松氏と大室氏をはじめとする綾瀬稲荷神社の氏子総代の方々に深く御礼申し上げます。特に唐松氏にはお世話になりっぱなしである。古文書の借用を快諾してくださった大室氏も有難い。この講と古文書の調査を以て報いたいと思う。

拝み箪笥

綾瀬稲荷神社所蔵の拝み箪笥。この中に入っている文書と共に足立区指定文化財。山開きの時の撮影は許可されなかったので、古文書といっしょに拝借した写真をスキャンしたもの。この写真ではどこが箪笥なのかわからないが、本体は神饌や祭具の乗っている布のかけられた部分である。この上にはお神酒をはじめとする神饌が乗っているが、その他に富士講の祭具で注目すべきはその奥にある富士型(富士山の形を模した金属製のご神体)と、向かって右に錦のカバーをかぶせられて立っている三十一日の巻である。そしてご三幅とよばれる五行お身抜・コノハナサクヤヒメ・大天狗小天狗を描いた(後ろ二つは木版刷り)三つの軸を箪笥の背後にかけてご神体とする。実際に見ることはできなかったが、唐松氏の提供してくださった資料によれば富士型は文政十年(1827)、三十一日の巻は天保八年(1837)の記年があるという。ただし、五行お身抜に記年はないようだ。箪笥の手前にある小さい箱はお焚き上げの時に使う炉である。拝みを行わない現在では使用されていない。片付けるときは全てが箪笥の中に収容される。かつてはこの箪笥も、祭具その他をつめ込んで拝みの当番にあたった家々を巡行していたのであった。都内では他に板橋区立郷土資料館のものが知られている。

神事のあと、富士塚の前で玉串奉奠する氏子たち
神事のあと、富士塚の前で玉串奉奠する氏子たち
満艦飾の富士塚鉄柵にかけられたマネキ

飾られた富士塚。
普段の様子はこれ

マネキ