群馬県富士塚めぐり(2002/06/01)、前編

▼富士信仰研究会の見学会と兼ねて

 富士信仰研究会の見学会として群馬の富士塚を見に行くという告知が来たのは、2002年4月の同会会報第10号だったと思う。私は毎回参加しているので今回も参加することにした。群馬の富士塚はもう六年ほど前から@NIFTY「山の展望と地図のフォーラム」(FYAMAP)上で船水康弘さんが地道な探訪の成果を発表し続けており、同じく千葉・茨城・栃木を探訪してまわっている藤井宏康さんと共に「いつかは群馬の富士塚をまわってみましょう」という話が出ていたので、見学会に乗っかって群馬の富士塚を見ようということになった。
 研究会の案内によれば、足利市内の富士塚を二つ見て昼食後足利学校と鑁阿寺に行くということだったので、それより早めに集まってまずは二箇所に行き、研究会と合流した後足利学校に行く前に分かれてまた富士塚を巡ろうということになった。私も藤井さんも船水さんも足利学校は既に見ているし、私はともかく船水さんと藤井さんは史蹟より富士塚を見たい富士塚マニアだったからである。
 かくして、一日かけて富士塚を十基以上見るという壮絶な一日が始まったのである。

●足利市島田町富士塚

 足利市駅で待ち合わせした船水さんと私は(藤井さんは遅れてくることになった)、まず足利市島田町の路傍にある富士塚に行くことにした。船水さんはGPSやカシミールをつかいこなす方で、今回も事前に緯度経度と詳細な位置をしめした地図をくださった。地図そのものを示すのは問題があるので、船水さんの教えてくださった緯経度に基づいて、タイトルにマピオンのマップをリンクさせる形で示そうと思う。地図中、中央のレチクルが塚の位置である。リンクを張るだけなら著作権法でいうところの引用の範囲を出ることはない(参考・社団法人著作権保護センターによるQ&A)。なお、yahoo経由でマピオンの地図を表示しているのは、画面のレイアウトがすっきりしているからという理由である。

 路傍に立つその塚は扁平で、三基の石碑がある登り口を越えるとその広い上部に石祠が一つあった。石碑の一つ、三十三度登山記念碑によれば明治十五年とある(残りの二つは「食行霊神」と小御嶽)。が、石祠には年代は記されていないもののその基部に「金百疋」「金八朱」などと寄付者の列名があって、それ自体は近世のものであると考えられる。二度目に訪れた時に出てきた地元の人に聞くと、今有る石祠本体(基部より上)は十年ほど前に前のものを模して立てたものだそうだ。その旧体は側に解体されて置かれていた。

島田町路傍富士塚
島田町富士塚全景

●足利市藤本町稲荷神社

 次に行ったのは、島田町の富士塚から近いところにある藤本町稲荷神社である。
 ひろびろとした境内を持つ神社で、塚は社殿向かって左にある。ここも低く扁平な塚で、どちらかというと塚ではなく土盛りの上に石祠を置いているように見える。石祠の扁額には「富士嶽」とあり、浅間祠であることがわかる。
 折りしも神社では地元の人たちが総出で清掃しており、話を聞くとかつて(戦前?)神社の端にあるゲートボール場(この塚からは社殿前の境内をはさんで反対の端)にあったという。祠の手前に「食行霊神」という石碑がある。

藤本町稲荷神社富士塚
藤本町稲荷神社富士塚全景

 ここまで見て時間がきたので、再び足利市駅に戻って富士信仰研究会と合流する。・・・が、今回われわれ三人を除くと二人だけであった。藤井さんも到着し、五人+一人(見学会幹事の中嶋信彰さんの小学生のご子息)で足利浅間神社へ向かう。

●足利市田中町の足利浅間神社・上の宮

 この神社は上の宮と下の宮とあり、それぞれ少し離れた山の上にある。もとはつながった山同士だったのだが、東武線のために切通しにしたのだという。
 合流した我々の行く道は、子供づれの家族でにぎわっている。皆、初山ペタンコ祭りで赤子にご朱印を押してもらいに来ているのだ。正直、これほど人が出ているとは思っていなかった。中嶋さんによれば「(今年の6/1が)たまたま土曜日だったからで毎年これほどの人出は見られない」ということだった。
 幟はためく参道に入れば、そこはちょっとしたハイキングのような山道である。普通に歩けば約10-20分程度の山道だと思うが、混んでいるため時間がかかる。特に山頂近くなると、赤子を抱えた親子連れが山道の半分を行列を組んで並んでいる。初山行事でご朱印を押す子供の年齢は各地で異なるそうで、ここでは一歳未満ということだが、それにしても赤子を抱えて登山する親も大変である。船水さんによると、平素は犬が五頭ほど放し飼いになっているそうだ。さすがに子供の多いこの日には引っ込めているのだろうが、それ以外の日に行く時は要注意である。
 山頂は何も無ければ広く、いい眺望が得られそうである。赤子を抱える親たちは手前の申し込み用テントでご朱印を申し込んで券をもらい(氏子にはあらかじめ券が配られているようだ)、小さい社殿の前に張られたテントでまちうける宮司たちにご朱印を押してもらう。ご朱印とお札類込みで2500円とあった。
 社殿前のテントではまず、券を受け取った後お祓いをうける。それからご朱印を持つ宮司たちの前に行きご朱印を赤子の額に押してもらう。周囲では親たちがカメラで撮影していたり赤子をあやしていたりしてにぎやかである。

にぎわう参道登り口 山頂付近 山頂遠景
にぎわう参道入口混んでいる山頂付近山頂遠景。社殿は奥
朱印を押された赤子 山頂付近 胎内入口
朱印を押された赤子山頂社殿胎内入口

 山頂から降りる時、ふと「山頂石尊宮」とある分岐と道標を見つけた。ひょっとして胎内を模したものかと思い、一度行ったことのある船水さんに聞くと関係なさそうという。ううむ、と思い参道登り口まで戻ると「富士修験者ゆかりの洞くつ」と幟にある!これは行かなくてはということで、下の宮に行った後でまた行ってみることにした。また、中嶋さんが下の宮で聞いたところだと、入口で火を焚いた形跡があることから富士行者修行の跡ではないかといわれ下野新聞2002/5/31号にも掲載されたという。経過としては前後するが胎内のこともここで紹介しておこう。
 この山の裏側へ車で回り込み、中腹に止めて五分ほど登ると先ほどの分岐に出る。今来た道・山頂への参道と合わせて四つあり、残る二つのうち一つは上りで数分急登を行くと「石尊宮」という真新しい石祠のあるピークに出る。もう一つはなだらかにやや下る道があり、それを行くと胎内に突き当たる。胎内は巨岩をくりぬかれており、傍らの掲示板によると奥には文殊菩薩を祀り(なぜ石尊で文殊なのかわからない)、その真上が山頂の祠になるとある。確かに入口は広範囲に炭化しており、激しく火を焚いた様子が窺える。ただ、これだけでその火を焚いた当事者やその行態を想像するのは難しく、角行系宗教に属する者が行ったものかどうか決定できない。恐らくは胎内か人穴になぞらえたものだとは思うが。普通の富士塚で胎内で火を焚くという事例は聞いたことがない。

●足利市田中町の足利浅間神社・下の宮

 下の宮は上の宮参道登り口前の通りを進み、東武線を越えたT字路の突き当たりにある。渡良瀬橋のたもとに参道登り口があり、ここでも赤子を抱えた親による行列がにぎやかである。なお、片方で朱印を押してもらった子供がもう片方の宮で押してもらう時は額ではなく腕になるようだ。ただ、両方行くと合わせて5000円程度の出費となるので皆両方行くかとなるとやや疑問である。
 石段を登ると社殿・拝殿の下に出る。上の宮が男浅間と呼ばれ、この下の宮が女浅間と呼ばれるようにこちらは上の宮に比してはるかに楽な道である。石段が切れると、あずまやがあり、ここでご朱印の手続きをするのだが、その看板には「ペタンコ祭の講券をお持ちでない方は臨時講又は御神印券をお受けください」とある。臨時講とはどういう意味であろうか。単に朱印を受けるだけのものではなく何か別の特典がついているのかもしれない。
 このあづまやを過ぎると、朱印を押してもらう拝殿まで巻く道があり、行列が相変わらず続いている。このあづまや脇から拝殿へ直に登る石段があるのだが、このときは封鎖されていた。この巻き道には石造物が点々と立ち、我々は行列を差し置いて石造物にむしゃぶりつくこととなる。
 これらの石造物を全てここで紹介することはできないが、古いものは天保十年(1838)からある。また、上の宮でも見かけたが、丸に「川上」を紋としているようだ。この紋を持つ講が如何なるものかは寡聞にして知らない。また、丸に「卍」を使うものもある。おそらく、丸に川上はこの地域だけのものではないかと思う。この講の大先達は正田正行という人のようで、石造物から二代目がいることも確認できる。初代は幕末から明治初期、二代目は明治中期のようである。
 下の宮の拝殿は神楽殿のように吹き抜けになっている。が、すぐ裏より短い石段が社殿へと続いている。この拝殿で上の宮のようにお祓いとご朱印の授与を行う。

 
下の宮登り口 あづまやと拝殿 下の宮拝殿
下の宮登り口あづまや(左下)下の宮拝殿
朱印を押す宮司 下の宮社殿 藁蛇(向かって左)
朱印を押す宮司下の宮社殿藁蛇(向かって左)
丸に卍の小御嶽 丸に川上の百度記念 初代正田正行の三十三度
丸に卍の小御嶽丸に川上の百度記念初代正田正行の三十三度

 ここで、我々は中嶋さん(とそのご子息)ともう一人、小林謙光さん(第十五講参照)とお別れすることになった。中嶋さんは下の宮で出す藁蛇を人数分確保して下さっていたので、それをいただく。感謝。写真は対比のために向かって右に東京文京区にある駒込神社で授与される藁蛇を置いてみた。駒込神社のものに比べるとずいぶんかわいい蛇であることがわかる。お供物に缶入り茶とせんべいを一緒にいただいたので五人+一人でそれを分け、拝殿への巻き道で一服するとFYAMAPerの三人は更なる富士塚めぐりへと向かうのであった。

 この稿中篇へつづく。謝辞は後編で。
 なお、初山行事そのものについては、中嶋さんの論文が今のところ唯一の考察だと思う。参照されたし。
中嶋信彰「初山の研究-利根川流域のある産育習俗-」(『埼玉民俗』第二十三号)