群馬県富士塚めぐり(2002/06/01)、後編
前編、中編に続いて、2002年6月1日に行われた群馬県での富士塚探訪のリポートの最後である。
●明和町斗合田の長良神社
ここも長良神社である。石造物や富士塚の調査をしているとそこだけ木の繁る杜を見て何かあると思うようになる、という話で三人「わかるわかるー」と盛り上がる。そのような経験をしたことのある人なら、たぶん誰でもそう思う習慣がつくのではないかと思う。ここもそのような感を起こさせる杜で、神社はぽっかりと田んぼの中に浮かんでいる。クルマを脇のあぜ道に止めて神社の敷地に入った。社殿の格子戸を覗くと、中に「長良大明神」という額が見える。この神はそのように呼ばれているらしい。
富士塚は社殿左斜め後ろにある。小ぶりだがなかなか立派な塚である。石祠もシンプルだがしっかりしている。群馬の富士塚にある石祠は立方体の身舎、大きめの流造の屋根が共通してみられる特徴のようである。基部の周囲には列名があるが、前と左右、三面に彫られているものは下の名が全て「○行」という具合に行名となっている。塚の前にある石碑は「烏帽子岩/食行霊神」と「小御岳神社」の二つである。
●板倉町飯野の浅間神社
「浅間神社」とはいうものの、庵かそれに準ずる規模の寺院であったと思われる。というのも、この浅間神社の周囲は念仏供養塔や無縫塔など供養塔や墓石が十基ほど並べられているからである。概観したところ、古いもので寛文のものなどがあったので、近世初期の設立であると考えてよい。おそらく廃寺と化した後で浅間神社が勧請されたものか。そして、石塔群、浅間神社に並んで集会所が建っているが、おそらくこの中には仏壇の類があると思われる。なぜかこの集会所には「中新田集会所」(地名の下はうろ覚え)とあったが、中新田はここより北東の字である。塚というより少し小高く土台を築いた神社であり、上に祀堂が建っている。石碑は石段の手前に「食行身禄Ё」のものがある。
●板倉町内蔵新田の民家敷地内
板倉町はいわゆる「板倉の雷電さま」で有名である。雷避けを目的とする雷電神社への信仰は関東平野の農村に篤い。その雷電神社の近傍を通過する際、ふと商店(?)のシャッターに「初山大祭」とある大きなポスターが目に入った。実は明和町でも同じポスターを見ていたので、どこの初山なのか不思議であった。足利浅間神社のものは「初山ペタンコ祭」なのでここではない。二人にそのことを言ってみたが、船水さんが「館林のかな?」という位だった。
今行く塚は船水さんの説明によると、個人の敷地にある富士塚で、しかしお参りは自由な状態だという。私は車酔いで朦朧としていたが、迷ったことでに更に拍車がかかった。結局GPSに入力した数値が間違っていたことが後で判明した。クルマを畑を手前に置く民家の敷地に乗り入れて塚の前で三人降車する。民家の縁側ではドカタ姿のおじさんがくつろいでいたが、いきなり乗り入れてきた我々に驚いたようだ。「すいませーん、ちょっと見させてくださーい!」と船水さんが断りをいれて、我々は塚に取り付く。
塚の周囲はよく手入れされた植木で覆われている。塚そのものはさほど高くないけれど、上の石祠は更に石組みを組んだ上にあり、なぜか石祠の前に鎖が張ってある。石祠の隣には植え込みを隔てて大ぶりな石碑が並ぶ。丸に卍の紋とともに扶桑教黒万字本部の先達を記念するものである(「霊璽」とあるが神葬祭の墓石ではないだろう)。順行という名を大先達として歴代名乗っていたようだ。船水さんによれば、卍を紋とする講が多いだけに群馬では黒万字、白万字、赤万字などを見かけるという。ここは黒万字を名乗る講の拠点だったようだ。
その内、縁側でくつろいでいたおじさんが「何か調査しているんですか?」と出てきた。聞くとその家はこの塚の管理者ではなく、塚の裏手にある民家が五代順行だった大先達の家だという。しかし、今は活動していないらしく、塚も手入れされる程度のようだ。確かに石碑を見る限り五代は昭和三十七年(1962)の没なので、それからここで見る最後の順行から40年経っていることになる。彼も小さい頃の記憶以上には地元の富士講について知らないようだった。なお、先ほど見かけたポスターの初山大祭は、館林の富士嶽神社のものだという。今回は訪れなかったが、船水さんによればここも大きい神社だということだった。
●板倉町峰の一峯神社
いよいよ最後の富士塚である。こちらも最後の力を振り絞る。一峯神社の手前の原っぱにクルマを止めた。ここは金峯庵という庵だったらしい。その端には石塔が並んでいるが中でも3m近くある宝筺印塔が圧巻の迫力である。俺ゃ富士塚なんかよりこっちがいいや、などと塚よりそっちの方を見入ってしまう。残念なのは隅飾突起が一つ欠けてしまっていることである。
肝心の塚は社殿手前の左脇にある。少し小高くなったところに石祠や石碑を置いたという感じで、塚としての印象は薄い。浅間祠の両隣に石祠と小御嶽の石碑を配している。もはや日没前ということもあり、木に囲まれた塚周辺は大変に暗い。
三人の富士塚巡りはここでお開きである。最後に三人で記念撮影をする。ところが私のデジカメは容量を使い切ってしまい、結局、藤井さんのカメラで仲良く撮ったのであった。みなさん、お疲れ様でした。
▼まとめ・群馬の富士塚を見て思ったこと
今回見た富士塚は数ある群馬県の富士塚のうち一部に過ぎないが、それでも明示的な特徴を述べることができよう。
- 塚の高さは大きくないものが多い。3m-2m程度のものが主である。
- 年代は幕末から明治にかけて造られたものが多いように見受けられる。ただし、足利浅間神社の石造物などは天保期に既にこの地に富士講が伝わっていたことを示すものであって、必ずしも群馬県の富士講は比較的新しい時代のものばかりではないと思われる。
- 塚の表面に黒ボクを貼り付けることはせず、土のままである。群馬県なら浅間山から産出される黒ボクをふんだんに利用することもできたはずだが、多くそれをしないのは何故だろうか。
- 異なる角度や長さの正面石段を二段階に伸ばすことによって参道を作り出すことが多く、そうした塚は前面が背面に比べてなだらかになっている。また、塚自体が後ろへ引いた二段階の土盛りによって構成されることもある。そういえば、栃木県にある大平山神社の富士塚も、山の斜面を利用しているとはいえ似た構成をしている。
- 石造物は浅間としての石祠、小御嶽大神と食行身禄の名を刻む石碑が三点セットとなることが多い。食行の石碑は「烏帽子岩/食行身禄」とあることが多く、もともと小御嶽と同じく烏帽子岩の位置を明示することが目的だったと思われるが、銘文の扱いは必ずしもそうではなく、食行自体を示すものとなっている。
- 石祠の各パーツは比較的立方体に近く、簡略化しにくい(簡略化すると屋根、身舎、基礎が一石材になり、薄く小さくなる)。屋根は流造が多いように思われ、正面には扁額を表し「富士嶽」や「富士浅間宮」などと刻むことで浅間祠であることを明示する。石祠は基礎の下にさらに丸石などで土台を造り、石祠の全高を稼ごうとする。
- 扶桑教の影響が非常に強く、三十三度記念碑の銘などに階位が示されるものも多い。また、食行碑における食行の称号が霊神号なのも扶桑教によるものだろう。
- 講紋としては丸に卍が広域的に多いが、局地的に丸に川上、丸に一山などの紋を見ることがある。ただし、船水さんの聞き取りなども総合すると、○○講としての意識は非常に希薄らしく、行者対村落共同体という関係で富士講が成立しているように思える。これは少なくとも近世の江戸市中などとは大きくあり方の異なるところで、より研究が必要だろう。
思いつくままに挙げてみても多くの検討すべき点を見ることができる。群馬県の富士講・富士塚研究は更に進められなければならないだろう。特に群馬県は角行や日Цに何かと縁のある地で、扶桑教の教勢が盛んだったのもこの点を重視した結果だと思われる。しかし、ここの富士講に法家系の影響があるかといえば甚だ疑わしく、むしろ食行を崇める点では他所の富士講と何ら変わりない。従来群馬県の富士講について言われてきたことは、彼らの実態をよく知らないところから出た憶測に過ぎないし、もちろん今ここで書いていることも一部を見た限りでの憶測でしかないのである。
謝辞
見学会の幹事を務めてくだだった富士信仰研究会の中嶋信彰さん、わざわざ小田原からいらした小林謙光さんにお礼申し上げます。
そして、富士塚を一緒にまわって下さった藤井宏康さん、船水康弘さんにお礼申し上げます。特に今回、船水さんには探訪でお世話になっただけでなく、この稿を書くにあたって塚のデータの検証や写真の提供でもお手を煩わせてしまいました。この場を借りて感謝します。
なお、今回巡った群馬県の富士塚については、船水さんの論文が詳しい。この稿を書くにも大変役に立った。
船水康弘「群馬県の富士塚」(『富士信仰研究』創刊号)
明和町斗合田長良神社の富士塚 | 板倉町飯野の浅間神社 | 板倉町内蔵新田の民家敷地内の富士塚 |
板倉町内蔵新田の民家敷地内富士塚の石碑 | 板倉町峰の一峯神社の富士塚 |
明和町斗合田の長良神社富士塚の石祠 | 板倉町内蔵新田の民家敷地内富士塚の石祠 | 金峯庵跡の宝筺印塔。身長175cmの私も梵字の書いてある宝筺部の上辺にしか届かない |