港区立港郷土資料館所蔵のお伝え(三)

▼内容梗概

 第十六十七講に続いて、港区立港郷土資料館所蔵のお伝えに関する話である。最後になる今回は内容の分析をしたいと思う。
 内容の次第を第九講の時のように列挙するなら以下のようになる。[]のついているものは私が便宜的に付したものである。旧字などは使えるものだけ用いた。

内容
1-2[手水祓]
3-14[帰依の称名]
15-26四筒日御禮申上
27-38[報恩の称名]
39-41御手水の御文句
41-43誓(?)の拜の御文句
44-47躰定丸の御文句
47-51御心歌御文句
51-52[三遍の称名]
53-65[十五首の御歌]
66[お身抜]
67-74星の御文句
75-76生火御身拔様御文句
77-87[角行から食行への讃]
87-89罪咎之御侘
90-100御祝詞御文句
101-102[蚕の四首]
103-104[奥付]

 特徴的なことを列挙すれば、

であろうと思う。
 このうち、開眼日照と照行日榮という二人の名前が注目されるが、うち開眼日照は人穴に同名の人を葬る墓石がある。

(正面)月行開眼日照 
(左面)
江戸住俗名
 谷六左衛門源應勝
富士宮市教育委員会編『史蹟人穴』(富士宮市教育委員会、1998)、p.233;no209。

 この墓石にある人物がお伝え中の開眼日照と同一人物であれば、この谷六左衛門という人物と、喜八の属する山玉講との関係を想像することができる。ただし、この墓石にこれ以上の情報はなく、生没年等も不明である。墓石の形態を同じ人穴にある周囲の墓石と比較するに、寛政から天保ぐらいの造立ではないかと思われ、没年もそれに近いのではないだろうか。とすると、18世紀末から19世紀初頭の没であろうと言える。この人が更に「月行」と付けて名乗る理由はわからない。月行系、すなわち月行からの直系の人だったのだろうかとも思うが(そう考えると月行と食行の間に挿入される理由もやや説得力を持つ)、しかしこのお伝えは一般的な富士講と同じく食行身禄を元祖と呼んで敬っているので、その点疑問が残る。照行日榮というもう一人の人物とともに今後の研究に期待したい。

富士宮市教育委員会編『史蹟人穴』(富士宮市教育委員会、1998)、図版二九。
人穴にある開眼日照の墓石
『史蹟人穴』、図版二九。

 また、この写者の喜八と山玉講について、人穴に清山正行の六十六度登山記念碑があることを知ったので追加して報告したい。この碑は天保七年(1836)の建立で、山玉惣同行として総勢150余りからなる名前を世話人として列挙している。先達を含む世話人と清山正行との間の地位にいると思われる先達を三人塔部左面に記し、そのうちの一人が「上総屋喜八」とある(富士宮市教育委員会編『史蹟人穴』-富士宮市教育委員会、1998-、p.196;no14)。お伝えを筆写した喜八は書写時(1818)に大先達と名乗っているので、20年経った天保七年当時には相応の年齢であったことが想像される。もしこの上総屋喜八とお伝え写者の喜八とが同一人物ならば、この碑にある名前の位置から山玉講内部にても大幹部となっていたことが想像できる。また、その名から上総屋喜八が商人を生業としていることも看取できるが、残念ながらどの地域に在住していたか、この碑からではわからない。この碑にある世話人たちの地域は堀江、猫実、市川、猿江、西町、浅草、神田、船橋、本所、本所横川町、深川とある。前回で書いた以上に(私が予想した以上に)広範囲に拡大しており、地域としては江戸川をはさんで現在の東京都東南部から千葉県西北部にわたるものであることが判る。また、名前から推測できる職種もバラエティに富んでいて、地域の広さと合わせてこの講の大きさが想像できる。

富士宮市教育委員会編『史蹟人穴』(富士宮市教育委員会、1998)、図版七。
人穴にある山玉講・清山正行記念碑
『史蹟人穴』、図版七。

 今話題にしているお伝えが山玉講の中で唱えられたことを考えると、このお伝えの内容が特定のやや広い地域で唱えられ、伝承されていたと考えざるを得ない。ここに、このお伝えを研究する意義が見出せると思う。

▼謝辞

 資料の閲覧・翻刻を許可してくださった東京都港区立港郷土資料館に深く謝意を表します。応対してくださった平田秀勝氏(文化財保護調査員)には写真撮影の際にご助力いただき、館内の展示物をご案内してくださった。なかなか妖しいご研究をしておられるようで(苦笑)、その薀蓄にはただただ驚くばかりである。記して感謝の念を伝えたいと思います。
 「一月には返却できる」と豪語していたところを三月までかかってしまい大変申し訳なく思う。けれども、このお伝えが富士講研究はもとより郷土史研究の史料として寄与できれば幸甚である。