港区立港郷土資料館所蔵のお伝え(一)

▼「お伝え」の概略

 2002年最初の更新は港区立港郷土資料館所蔵の「お伝え」の翻刻である。
 昭和に入って活字で印刷されたお伝えについてはかつて第講で取り上げたが、今回取り上げるものは出所不明ながらもそれよりはずっと古く、かつオーソドックスな内容を持つものである。

 第七講でもした概説を改めてするならば、ここで論じられる「お伝え」とは、富士講において定期不定期を問わず講としての宗教的行事の際に唱和されるある種のテキストである。平たくは勤行用の教典とも言いうる。大抵、携帯と実用の便を考え折本の形をとり(時に大和綴などもある)、その装丁にあまり装飾性はないものの漆塗りなどした木製の表紙を取り付けている場合もある。
 お伝えは、角行系宗教独自の「ご文句」とよばれる呪文、祝詞、称名、彼らが「元祖」または「中興」と崇める食行身禄が作った「お歌」とよばれる一群の和歌、般若心経などの宗教的内容をもつ短文の集合から成っている。唱和に用いられるものなので講内部でのお伝えは内容が統一されているが、異なる講同士ではその内容の取捨、配列、各字句の表記などが全く一致しない。ただし、ある程度の傾向を指摘することは可能である。「お伝え」とは食行身禄の著作においては「彼が崇める神の命令」という意味であるが、ここにおいては「伝承される教典」という意味で用いられているように思われ、事実お伝えは私が知る限り写本の形で残っていることが多い(まれな例外が第八講で掲げたような近代的な印刷によるお伝えである)。おそらくは講内部の書写によって講員の間に広められ伝えられていったものであろう。
 お伝えは写本の形で富士講の痕跡のあった各地に残されており、一般の講員が角行系宗教に触れるには最も身近なテキストであったことを窺わせる。研究の世界では食行の口述筆記とされるいわゆる『三十一日の巻』が最も膾炙した富士講の教典と言われているが、実際は「開けると目がつぶれる」などの伝承などによって衆目から守られており、講の人たちの間では「宝物」の域を出ないことが多いようだ(おそらく、吉田-山梨県富士吉田市-の御師による授与が高価だったために広げられることがなかったものが無闇に神聖視されてきた結果であろう)。宝物であれば、その巻物が開かれることも、ましてやその中身が検討されることも無い。むしろ講員たちはそのような教義を記した文献を読むことよりは、お伝えを法会の際に唱和し続けることで富士講が持つ独特の言い回しや発想に馴染んでいったものと想像できる。
 そのような事情を考慮すると、お伝えの研究は集団として富士講が角行系宗教の知識をどのような形で保持してきたか、または一歩退いて他の宗教と交じり合った信仰の立場に基づく世界観をどのような形で共有してきたか、ということを窺うに好適であるといえる。例えば食行や各講において輩出されたであろう行者の思想を考察するには彼ら自身が書いた著作を見るのがよいが、それはあくまで個人の精神にとどまるものでしかない。即ち、各個の思想は必ずしも富士講一般の思想に反映されたものではなく、特に講を支えていたであろう大多数の信者が彼らほどユニークな世界観を自らに備えていたと考えるには無理がある。角行系宗教から富士講への過程はいわば「血が薄まる」過程でもあると考える。特に信仰より富士山への登山を目的とするような末端の信者にとって、富士講が提示する世界観の重要度は他の宗教や民俗が提示するものより希薄であったに違いない。そのような意味で、富士講に信仰生活のウェイトを大きく置くようなコアな行者の精神世界は全ての富士講徒が共有しにくいものである。しかし、お伝えは講員なら参加すれば誰でも唱えるわけで、その唱和はお伝えに提示される信仰の世界を集団的に共有せしめ得る。ここに一見意味不明な呪文の羅列にすぎないお伝えを研究する意義が生ずると私は考える。
 ちなみに知られているお伝えの最古は、岩科小一郎『富士講の歴史』(名著出版、1983)p.296によれば、岩科氏自身が蔵する元文元年(1736)の年記を持つ田辺十郎衛門によるものである。『富士講の歴史』で解説されている内容の梗概から想像するにお歌とご文句が大部分のかなりシンプルなものと思われ、祝詞や富士山の縁起などはこの時点では付加されていなかったようだ。が、それ以前に、この元文元年のお伝えと他の知られているお伝えとでは時間差があまりにも大きく(岩科氏所蔵のものだけでも次に古いのは寛政四年-1792-。また下のリストでも最古は文政年間)、一人この本だけが群を抜いて古いことになるため現時点では疑問なしに受け入れることはできない。いずれ現物を実見してみたいとも思うが、今は唯「これが最古とされている」と言うのみである。

▼公表されているお伝えの諸本

 お伝えは各地に残されているので、翻刻も比較的豊富にある。また、これから所在が明らかになるものも多いと思われるし、翻刻されていないけれども所在が確認されているものもある。研究に用いる資料は広く一般に閲覧できる状態にあることが望ましいので、(正しい手続きと手段を以て作られた)翻刻が増えることは喜ばしい。
 私が知る限り、出版されているお伝えには以下のものがある(2002/02現在)。底本の書写年代の古い順に排する。ただし、存在は知られていても出版されていないものはここに含めない。そういった、研究材料としてまだ使用できる状態にはないお伝えも少なからず存在する。私の知るものも含めてこれから活発に発表されるべきであろう。これらの中には、厳密に言えば影印や筆写も含むのでその違いも示した。リスト中に「翻刻」とあれば活字で表したものである。お伝えに用いられている角行系文字やレイアウトの再現に翻刻者が一様に苦心している様が窺える。もし、お伝えに関してこれ以外にご存知のものがあれば、ぜひご一報いただきたい。

Update!
第十七講発表分を追加。品川区のお伝えについて追記・調整する(2003/04/17)。

年代/講(所在地)出典形態
文政元年(1818)/山玉講富士講アーカイブ講堂第十七講翻刻(図版あり)
文政8年(1825)/丸藤講?(不明)國書刊行會編『信仰叢書』(國書刊行會、1915)、p.473翻刻
文政10年(1827)/赤池家所蔵伝空胎文書(静岡県富士宮市北山)富士宮市教育委員会編『史蹟人穴』(富士宮市教育委員会、1998)、p.306翻刻
文政10年(1827)/赤池家所蔵伝空胎文書(静岡県富士宮市北山)富士宮市教育委員会編『史蹟人穴』(富士宮市教育委員会、1998)、p.310翻刻
明治44年(1911)/山吉玉川講(東京都大田区下沼部)『大田区の民間信仰(念仏・題目・諸信仰編)』(大田区の文化財第十二集、大田区教育委員会、1976)、p.105翻刻(図版あり)
昭和?/丸藤宮元講社(東京都新宿区早稲田鶴巻町)『新宿区の民俗 (2)四谷地区篇』(新宿歴史博物館、1992)、p.189翻刻(ただし、末尾の般若心経と底本の奥付を欠く)
昭和3年(1928)/丸藤講(東京都足立区足立)富士講アーカイブ講堂第八講影印
昭和4年(1929)/田端山元講社(東京都北区田端)『田端冨士三峰講調査報告書』(文化財研究紀要別冊第九集、北区教育委員会社会教育課、1995)、p.66影印
昭和7年(1932)/丸参伊藤元講(東京都北区十条)『十条冨士講調査報告書』(文化財研究紀要別冊第五集、北区教育委員会社会教育課、1991)、p.168翻刻(一部影印)
昭和33年(1958)/田端山元講社(東京都北区田端)『田端冨士三峰講調査報告書』(文化財研究紀要別冊第九集、北区教育委員会社会教育課、1995)、p.78翻刻
昭和61年(1986)/丸参伊藤元講(東京都北区十条)『十条冨士講調査報告書』(文化財研究紀要別冊第五集、北区教育委員会社会教育課、1991)、p.153影印?
不明/羽田木花元講(東京都大田区羽田)大田区教育委員会社会教育課社会教育係編『大田区の民間信仰(念仏・題目・諸信仰編)』(大田区の文化財第十二集、大田区教育委員会、1976)、p.111翻刻(図版あり)
不明/品川丸嘉講社(東京都品川区品川)『品川区文化財調査報告書 昭和49年度』(品川区教育委員会社会教育課、1975)、p.41平野栄次氏による手書き。当講で現行のもの。『品川の富士講と山開き行事』p.120にも転載。
不明/品川丸嘉講社(東京都品川区北品川)品川区教育委員会編『品川の富士講と山開き行事』(品川区教育委員会、2002)、p.60翻刻
不明/品川丸嘉講社(東京都品川区北品川)品川区教育委員会編『品川の富士講と山開き行事』(品川区教育委員会、2002)、p.67翻刻
不明/丸吉講(田子山富士太々講)(埼玉県志木市本町)志木市教育委員会編『調査報告書 田子山富士』(志木市教育委員会、1996)、上巻p.164翻刻・同書に他三点の部分のみ影印あり
不明/丸吉講(田子山富士太々講)(埼玉県志木市本町)志木市教育委員会編『調査報告書 田子山富士』(志木市教育委員会、1996)、上巻p.166翻刻

このリストは折りをみて追加していこうかと考えている。
前ふりの文章が増大したため、本題の港区のものについては、次講に譲りたい。